【2024とやま】被災地伏木 住民のつながりを守る 高岡市
KNB北日本放送
今週、エブリィは今年の富山を振り返っています。 2回目のきょうは、能登半島地震で大きな被害を受け、住民が次々と転出している高岡市伏木地区で、地域のつながりを考えます。 冷たい雨が降る今月11日。 液状化被害が深刻な高岡市伏木からまた1軒、引っ越していく家族がありました。 島良一さんと榮子さん夫妻です。 終の住み家として17年前に建てた家は、震度5強の揺れに耐えましたが、家全体が傾いてしまいました。 地震当時、砂と水が、家の横の水路周辺からあふれてきて家に入りそうになったといいます。 島榮子さん 「ここのへんまできた、砂と水が(吹きあがるというか)流れて、どこから来たのか分かりませんけど」 傾く家での暮らしはどんなものだったのでしょうか。 島榮子さん 「寝るのが一番大変。頭が痛くなったり腰が痛くなったり。布団1枚、こんな薄い布団ですが1枚持って、こういう感じでここを頭にして高いところを頭にして寝て、ここがだめでまた途中でそちらへ行ってだめで、いいわと思って電気をつけて起きている状態。何日も続いた」 水平にして寝るため、ベッドの脚に板をはさみ込んで工夫しました。 島榮子さん 「これです、これだけの高さ。2階の方がちょっとひどいのかな、と思う。(水平でないと)とても寝られませんよ」 いつも体のどこかに力を入れて、自ら水平を保つ暮らし。だんたん体調が悪くなりました。 島榮子さん 「食事が通らない。夏ごろまでに3キロほど痩せた。それからまた1キロほど痩せて、4キロほど減った」 良一さんも同じくらい痩せました。 これ以上は無理と決断し、今月、高岡市内の中古物件に引っ越しました。 引っ越し当日、作業を見守っていた良一さんー。 Q本当はここにいたかった 島良一さん 「 そうですね(涙声)」 Q何が一番心残り 島良一さん 「やはり5月の(曳山)祭りですね」 良一さんは、石坂町の曳山の総代も総総代も務めました。 島良一さん 「かけがえのない山車でしたね。もうこんな寂しい思いはしたくない」 引っ越しの決断におよそ1年かかったのは、高齢で金銭的に余裕がないこともありますが、念願の家と伏木での暮らしをあきらめきれなかったからです。 伏木地区の自治会連絡協議会の調査では、震災でおよそ120世帯が転居し、被害が大きかった石坂地区と中道地区は、半数近くが転出したといいます。 Q街並みが全く変わってしまいますね 石坂自治会 二口勇平会長 「今日見てきましたけど周り中解体していますよ。伏木の町が空地だらけ。私の班は10軒ありました。今3軒しかおりません。隣の班も今は2軒しかおられない」 自治会で曳山を運営する石坂地区。今年は、かっちゃへの参加を見送りました。 公民館も被災し、解体に向けて今年7月、荷物の運び出しを行いました。 このため、納涼祭を開催できないなど自治活動に制約を受けています。 富山大学などのアンケートでは、被災した9つの自治会のうち住民の交流が減ったと答えた人が最も多かったのが石坂地区でした。 それでもー 石坂自治会 二口勇平会長 「伏木で生まれて、伏木で亡くなりたいと思っておられる方も何人かおられますね。ですから今2軒新しく建てておられますが、この後3軒は解体して、そこで建てるというふうに聞いている」 新築の住宅をいち早く建てた家主には思いがありました。 「いろんな人が前を通ってじっと見ていかれると聞いているし。頑張っとるなら伏木に残らんなんと言って家を直して住み続けんなんと言っている人もいるし。何か力になればね、きっかけになればと思って早く建てた」 石坂地区と同じく液状化被害が大きかった中道地区。 今月16日、取材を続けてきた青果物店、林傳商店の公費解体が始まりました。 林傳一さん 「今まで過ごしてきたところやぜ。3歳くらいからずっとここにおる。思い出たっぷりやちゃ。なんかじーんとくるもんある」 経営してきた林傅一さんは、店舗から歩いて10分ほどの息子の家の敷地にプレハブを設置して、営業を続けています。 常連客 「毎日お昼に来るんですけど、顔を見て、元気をもらって頑張ろうみたいな感じで」 常連客 「話してね、みんなとここで、楽しいわ、ここ来たら」 林傳一さん 「ここやったらいろんな人、脇からどんどん入ってくる。こういう形を求めていた。配達へ行きたいときにちょっと電話してちょっと来てくれまーと」 林さんの友人 「ごはん食べとるがに電話かかってくるが、はよ来いまと」 林傳一さん 「店番の類。ひとつの復興、みなさんが寄り集まる場所にしていけば、また伏木の街も活気出てくるがかなと」