【89歳の美容家・小林照子さんの人生、そして贈る言葉④】食を粗末にする人は自分も他人も大切にできない
89歳にして美容研究家であり、ふたつの会社の経営者として現役で活躍する小林照子さんの人生を巡る「言葉」の連載「89歳の美容家・小林照子さんの人生、そして贈る言葉」。今回、お話しいただいたのは、生きていくうえで粗末にしてはいけないものについてだ。 5歳で実父が他界したのを機に、継母の兄夫婦の養子に。そしてまもなく太平洋戦争が始まり、親子で山形に疎開。こうして小林照子さんの波乱万丈の人生の舞台は山形へと移る。ここでも人生の教訓を得る多くの出来事が起こる。
今あるものが永久に続くことはない
「1941年の春、私が6歳のときに継母の兄夫婦・花形家の養女になり、小川照子から花形照子になりました。 その年の12月に太平洋戦争(第二次世界大戦)が始まりました。新しい父はそれまでは家具メーカーを経営していましたが、戦争が始まると、防空資材を作って売る会社に転向。戦時中に大儲けをして財を蓄えていました。 戦争は長引き、やがて本土への空襲が始まり、東京にもアメリカの戦闘機や爆撃機が襲来するようになります。その戦火を逃れるために、1945年(昭和20年)2月に私と養母・八重子の二人は、養母の生まれ故郷である山形県の庄内に疎開しました。 翌月の3月に東京大空襲があり、下町は火の海と化して多くの人が亡くなります。私たちは危機一髪、難を逃れて命拾いをしたのです」 山形へ向かう列車の中は、網棚にも人がいるほどの超満員。飲まず食わず、トイレにも行けない状態で十数時間、息を潜めて身動きできずにいたそう。 「私は東京を出たときはしゃれた革靴を履いていましたが、列車を降りたときは一面の雪景色。大好きな靴でしたが、歩きにくいといったらありません。東京とは違う新しい生活の始まりでした。 空襲で父の店は全焼。その片づけをした後、父が山形に来たのは、その年の8月の終戦後でした。防空資材で儲けたお金を銀行にたっぷり預けていましたが、日本の貨幣価値は変わり、戦前のお札はタダ同然の紙切れに。疎開のときに鉄道便で送った荷物は、途中で多くを盗まれ、届いたのは1/3程度でした。 『世の中はこうやって変わっていくものだ。今あるものが永遠に続くと思ってはいけないよ』と言った父の言葉が心に沁みました。 父の自らの教訓でしたが、戦後の山形での父は東京にいるときの英気あふれる姿ではありませんでした。実業家であったプライドがじゃまをしてか、農業などの肉体労働をする気はなく、働かずに釣りをしたり、地元の有力者と碁を打ったりして過ごしていました。 一家は手元に残ったわずかなお金と、着物や帯などを食料と物々交換するなどして、細々とした暮らしを余儀なくされました。最初は町長の家の隣にある立派な一軒家に住んでいましたが、だんだん家賃の安い家に引っ越さなければなりませんでした」