「これ私じゃなくてもいいのでは」自分は大物という驕りから転落、私が自虐のかたまりとなった日々のこと【坂口涼太郎エッセイ】
日常にこそきらめきを見出す。俳優・坂口涼太郎さんが、日々のあれこれを綴るエッセイ連載です。今回のエッセイは「第一次エゴブーム終焉〈前編〉」です。観られる職業である俳優は、自意識過剰くらいがちょうどいい? のか。 【写真】日常こそが舞台。自宅で「お涼」ルーティーンを撮り下ろし 恥ずかしいことを書きます。 これまでもこの連載にはずっと恥ずかしいことを書いてきたので、お涼は恥ずかしいことを晒したいマニアなのかと、私たちはお涼の恥辱プレイに巻き込まれているのではないかとお思いの方もいらっしゃるかもしれません。 そういうわけではない。そういうわけではないとできれば言いたい。そんな気持ちでいっぱいです。 私は28歳ぐらいのとき、自分に驕りがあり、自分は大物だと思っていました。 ああ! 恥ずかしい! こんな恥ずかしいことを言う個人事業主がいるでしょうか! まさに自営業の恥! この腐れフリーランスめが! ああ! もっと見て! ことの発端はあるドラマに参加したとき。 その数ヵ月前に私は親友と韓国に行き、その活気に影響され、いてもたってもいられなくなり、自分でプロデュースした「Rebirth」というダンス動画を発表したり、お正月にはひとりで台湾に行き、本場の豆花から得た漲りを立て続けに参加した私のマスターピースと言っても過言ではない木ノ下歌舞伎の演劇「勧進帳」と舞踊公演「三番叟」にぶつけ、なんだかもう百戦錬磨の気分。いまならなんだってできるで。この漲りを放出できる場を俺にくれ。脂が乗りすぎてじゅわじゅわのしみしみや。空気の乾燥だけで着火しそうとういうか、側から見たらもう燃えてるんじゃないか。歩く火事として通報されているのではないか。いま向こうに見える消防車は私を目掛けて出動しているのではないか。そんな危機感を抱きながらドラマの現場に行ってみれば、なんだか雲行きが怪しい。 「あれ、これ私じゃなくてもいいのではないか」 演出部さんにここにいてくださいと言われるだけで、30人ぐらいの中に埋没し、背景画像のように一日中立っているだけ。カメラは一向にこちらを向く気配がないし、向いたと思えばピントはいまをときめくすてきな俳優さんたちのご尊顔に合っていて、私は水彩画に水をこぼしたようにぼやけている。印象派の画家たちも「そこまでぼやけさせんでもええんやないの? それはもう印象というより気配やないの? 気配派という新たな潮流を生み出そうとしているの? 絵の具、水で溶きすぎてない?」と訝るほどに原型をとどめておらず、私が燃えていることなどその場の誰一人として気づいていない。というかもう、そこに肌色の物体があればいいのではないかというお仕事だった。
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