文章は映像よりも「上から目線(エラそう)」?...贅沢品になった「使えない知」延命のヒントとは
たしかに、38年の歳月はさまざまな変化を生んだ。 1986年に男女雇用機会均等法が施行されて以降、男女共同参画社会基本法(1999年施行)、働き方改革関連法(2019年から順次施行)、そしてLGBT理解増進法が施行されたのは2023年である。 マスメディアのコンプラ意識は高まり、ジェンダー平等や多様性に配慮しようとする風潮も強まった。 『ふてほど』で繰り返される喫煙シーンをはじめ、「下品」な言葉づかい、下ネタ、「テレビでおっぱいが映る」といった性にかんする(相対的な)奔放さも、いまでは「不適切」とされる。 では、こうした文化・風俗の変遷のなかで、『アステイオン』が標榜する「知的ジャーナリズム」と、それを支える読者層はどう変化したのだろうか。 本誌創刊当初の目次をながめると、学者や批評家ら、いわゆるビッグネームが並んでいる。 再開発される都市と、都市空間の広告化。そこに重ねられる文化やサブカルチャーの香り。世界をリードするニッポンという自負、それを疑わない素朴な楽観。 飛び込んでくるのは、知識人、知的エリーティズム、脱戦後、「アメリカ」、国際人、言論人、コピーライターといった単語の数々だ。 世界の思想や経済の地図のなかに「日本」を、そして「われわれ」を位置付けるような態度が許容される各論考の空気は、呑気にも思えるが、うらやましくもある。 くわえて誌面を彩るのは、つぎのような商品広告である。SHISEIDOパラディムオーデコロン(キャッチコピーは "資生堂から、男の日々へ親展")、小学館「日本大百科全書」25巻セット(「専用書架贈呈」!)、電建ホーム( "あきらめないでよかったね")、富士通ワープロ、海外旅行情報誌『ab-road』、YAMAHAやYONEXのゴルフクラブ、日清マヨドレ( "責任が増えてきたら、知らないうちにコレステロールも増えていませんか")、青春出版社『PLAYBOOKS』( "新時代を考えるビジネスマン必読書")、第一製薬の発毛促進剤「カロヤンS」、DAIHATSU第3シャレード( "素敵な人と、「さ、ツーサム」")......。 これらから浮かび上がるのは、次のような読者像だろう。すなわち、知的向上心を持ち、企業では部下に対して教育的立場にあって、都会的かつ洗練された「豊か」なライフスタイルを志向するサラリーマン。 経済やビジネス、文化をめぐる体系的な知識の獲得に励み、それらを自己完結的に吸収するだけでなく、他者に示すための消費にも余念がない。 もちろん、オトコ磨きだって忘れない(映画『私をスキーに連れてって』の公開は、翌1986年だ)。彼らにとって、『アステイオン』もまた、憧れのライフスタイルを彩るアイテムだったのだろうか? いずれにせよ、このような雑誌の存在を支えているのは、「知的なものには(他者との差異を演出する)弁別的価値がある」という共通前提、社会の空気である。 こうしたムードこそが戦前からある時期まで続いた教養主義(その終末が、本誌創刊の時分だろう)を下支えしていたのであり、堤清二が主導したセゾン文化と相互浸透的に広まった、1980年代のニューアカブームの存立条件でもあった。 当時、26歳、京都大学助手であった浅田彰の『構造と力』(勁草書房)が刊行されたのは、1983年のこと。 そこから、40年後の2023年に、かつて浅田とともにニューアカの旗手とされた中沢新一は、難解な本が若者に支持された理由を「『おしゃれなんです』(中略)女子学生が『格好いい』と小脇に抱えてくれればいいと思った」と振り返った(『読売新聞』2023年4月30日付)。 一方の浅田彰は「僕の本を抱えて歩くのが格好いいというのはどうかと思いましたけど、背伸びをする、いい意味でのスノビズムがなくなったのは問題だ」(同前)、という。 なるほど、コスパ、タイパ、ネタバレ消費、インプレッション......なんでも良いが即時的なパフォーマンスの高さが求められる現代では、コスト意識のもとに有用性がないと判断されたものは切り捨てられてしまう。 そんななか「使えない」知識と向き合い、没入する時間は、男女共働きで賃労働とシャドウワークに明け暮れる生活のなかで捻出困難である。 要約コンテンツが歓迎されるのは、そこに経済合理性があるからだ。いよいよスノッブを気取ることの効能は失われていく。 したがって、『アステイオン』創刊当初のように、「日本(にいるわれわれ)は世界においてどうあるべきか」などと大局的なことを考える余裕もない。 人々はハンバーガーチェーンの値上げについて語り、今日のランチになにを食べるか逡巡する。この生々しい生活のなかに、ようやく自分の足元を見ることができる今、「知的ジャーナリズム」は実生活から乖離した、親しみの湧かない贅沢品だ。 そのうえ、SNSをひらけば、「知」は暴力的ですらある。やかましくて、交戦的で、感情的対立を生む火種のようだ。 どこから飛んでくるかわからない言葉の刃物に怯え、他者との対話を断念する人もいるだろう(『ふてほど』の向坂サカエの職業設定が、「やっかい」な女性のシンボルのように使われているとしたら、社会学に関わる一人として、それを自嘲するだけでなく、そうしたメディア表象にこそ実直に向き合いたい)。 「鈍く感じ、固く考える」風潮が支配し(フィルターバブルとエコーチェンバー)、人々を一層そのような方向に誘引していくアルゴリズム機能のなかで、『アステイオン』のキャッチフレーズである「鋭く感じ、柔らかく考える」ことは容易ではない。 では、音声や映像といった五感を刺激し、情動に強く訴えるデジタルメディアが氾濫する現代社会で、「文章=活字」を主戦場とする「知的ジャーナリズム」が再生、ないし延命するためには、なにが鍵となるのだろうか? それはまずもって、冒頭で掲げた学生のなにげない一言、「同じメッセージを伝えようとしても、どうしても文章って映像よりも "上から目線"になっちゃう」という感覚と真摯に向き合うことだ。 これを「大衆」の無教養などと軽視している以上、当該メディアは自称インテリ(これも死語だろう)による、インテリのための内輪の営みに終始してしまう。 もとより「大衆」は相手にしていないという意見もあろうが、「知的ジャーナリズム」や「論壇(誌)」が、その傲慢さを高潔さと履き違えているうちに、送り手が想定する「理想の読者層」の実態を伴わなくなったのではないか。 というか、そもそも創刊号の広告から想像される読者イメージ自体が、雑誌側が作り出した理想、いや幻想だった可能性すらある。 最後にちゃぶ台返しをするようだが、出稿された広告群が示すのは『アステイオン』読者の実像ではなく、あくまでも本誌が訴求したいと考えたターゲット像にすぎない。それが現実の購読者と重なっていたのかは、かなり怪しい。 つまるところ、ニューアカの香りが残る時代から、じつは『アステイオン』は一度も「カッコイイ」もの──ちょっと背伸びして抱えてみたい雑誌──ではなかったのかもしれない。 本誌に限らず、「知的」なメディアは往々にして、「そう見せたい」という送り手側の願望が前景化しがちだ。 商業誌ではなく社会貢献という大義があると悠長にかまえている間に、貢献すべき「社会」のほうが猛スピードで変容する。これはアカデミズムに身を置く者として、当然自戒も込めている。 ジャーナリズムであれ、アカデミズムであれ、それが知性を信頼したいと切望する人々のよすがであるためには、少なくとも「上から目線」(エラそう)から「カッコイイ」(憧れ、背伸びしたい)への転換が必要である。 その道中は、「知的ジャーナリズム」が党派性に縛られた(エラそうな)論壇人の独壇場たる「論壇(誌)」から脱却し、別の途を示すプロセスと重なる面もあるだろう。 今後、もし "アステイオンを小脇に抱えることがカッコイイ"、といった知のファッション化の時代が訪れたとしても、それを嗤っていられる余裕は「知的ジャーナリズム」にも「論壇」にもない。 むしろ大いに歓迎すべきである。知的上昇志向が冷笑され、「使えない知」の居場所が失われつつある状況よりも、それはだいぶマシ、と言えるからだ。
大尾侑子(Yuko Obi) 1989年生まれ。東京大学大学院学際情報学府博士課程満期退学。博士(社会情報学)。桃山学院大学准教授を経て、現職。専門はメディア史、歴史社会学。著書に『地下出版のメディア史──エロ・グロ、珍書屋、教養主義』(慶應義塾大学出版会、第9回内川芳美記念メディア学会賞、第44回 日本出版学会賞奨励賞)、『ポストメディア・セオリーズ:メディア研究の新展開』(共著、ミネルヴァ書房)など。
大尾侑子(東京経済大学准教授)