文章は映像よりも「上から目線(エラそう)」?...贅沢品になった「使えない知」延命のヒントとは
<ドラマ『不適切にもほどがある!』でも描かれたように文化・風俗が大きく変わった38年間。実生活から乖離した「知的ジャーナリズム」に再生の道はあるのか──『アステイオン』100号より転載>【大尾侑子(東京経済大学准教授)】
勤務校の所属学部では、毎年「優秀卒論・卒制発表会」という行事がある。各ゼミから優れた卒論、卒業制作が一点推薦され、選ばれた学生が教員らの前でプレゼンテーションをおこなう。 【写真特集】青いシートが可視化した 不可視の人々 卒制は映像作品が中心で、プロ顔負けの動画も珍しくない。なかでも、2023年度の推薦作品のうち「泣く」という行為から自分自身と向き合った約6分間の短編映画が印象的だった。 監督、主演、ナレーション、編集すべてを一人でこなし、プライベートな姿をこれでもかと曝け出すさまに圧倒された。 余韻が消えないまま、私は作者のもとに駆け寄り、「映像作品も卒論とは別の魅力があって良いですよね」と興奮気味に伝えた。すると彼女はこう言った。 「たしかに、同じメッセージを伝えようとしても、どうしても文章って映像よりも "上から目線"になっちゃいますもんね」。 2001年生まれ、春から社会人になる彼女の言葉に触れ、まっさきに想起したのが、この『アステイオン』の原稿だった。 ◇ ◇ ◇
そもそも今回の依頼は、本誌「創刊当時の議論を再検討し、『アステイオン』を含む知的ジャーナリズムの今後の役割について考える」、「1986年当時の雰囲気を味わいながら、38年を回顧し、論壇のこれからを検討してほしい」というものだ。 1989年(平成元年)生まれの私にとって、1986年は「歴史」の一部であり、もちろん「当時の雰囲気」など知らない。 不勉強を承知で言うが、依頼を受けるまで『アステイオン』の存在も知らなかった(1984年に創刊された岩波書店の雑誌『へるめす』は手に取っているが)。 それに「知的ジャーナリズム」と「論壇(誌)」はイコールなのだろうか? モヤモヤしているうちに、秋が過ぎ、気づけば作業の手が止まったまま新年を迎えた。 そんな折、2024年1月から宮藤官九郎オリジナル脚本の金曜ドラマ『不適切にもほどがある!』(TBS系、以下『ふてほど』)がはじまった。 "意識低い系タイムスリップコメディ"を掲げる本作は、ひょんなことから令和の世にタイムスリップした「昭和のダメおやじ」こと小川市郎が、「不適切」発言の数々で現代社会をかき回す物語だ(次第に明らかになるが、物語には阪神・淡路大震災というテーマが横たわる)。 一方、市郎とは逆に、息子とともに現代から「昭和」にタイムスリップしてしまうのが、「社会学者で、性差別やジェンダー問題の論者としてメディア露出もしているフェミニズムの旗手」、「令和時代の代弁者」という設定の向坂サカエなるキャラクターである。 作中ではこれら登場人物の声を借りながら、「令和」と「昭和」がはらむ空気感や規範意識の違いが戯画的に描かれる(単純な二項対立に見せない工夫もある)。 コンプライアンス、ハラスメント、多様性、性をめぐる表現にくわえ、ファッション、流行歌、通信機器まで両社会の "違い=距離の遠さ"を演出するものが満載だ。 なかでも恒例となっているのが毎話登場する「お断りテロップ」である。 たとえば第2話では、〈この作品には、不適切な台詞や喫煙シーンが含まれていますが、時代による言語表現や文化・風俗の変遷を描く本ドラマの特性に鑑み、1986年当時の表現をあえて使用して放送します〉と表示された(毎回、微妙に文言が違う)。 むろん、これ自体が注意喚起テロップを多用する「令和」のテレビ業界を皮肉ってもいるのだが、注目すべきはその時代設定である。 すなわち、2024年との違いが強調される「昭和」とは、かつての昭和ノスタルジーブームが描写した高度経済成長期ではなく(映画『ALWAYS三丁目の夕日』公開は2005年)、1986年、『アステイオン』創刊の年なのだ。