もうダメかもしれない…「硫黄島上陸」をあきらめかけた新聞記者に起きた「驚きの奇跡」
「諦める旅」の最終日に起きたこと
そんな「諦める旅」の最後の夜。忘れもしない8月7日。午後8時を過ぎていた。ホテルの客室で幼い子供二人を寝かせ、旅の終わりを名残惜しむように妻と歓談していた。 その時、僕のスマートフォンに着信があった。発信元の電話番号が表示されたが、心当たりはない。「応答」をタップした。声の主は若い男性だった。JYMAの者であると僕に告げた。 「JYMA?」それが遺骨収集の学生ボランティア組織「日本青年遺骨収集団」の略称であることは、やや間を置いて思い出した。 男性は自身が「派遣管理部長」と自己紹介した上で「実は」と本題に入った。 「9月下旬から16日間の日程で、令和元年度第二回硫黄島戦没者遺骨収集団の活動が行われます。この収集団への参加が決まっていた学生二人のうち一人が急遽参加できなくなりました。そんな中、酒井さんが硫黄島への派遣を希望していると聞きました。もし可能であれば、代わりに参加しませんか。来週中に可否を回答してください」 男性は、僕に対して、硫黄島に渡ってほしいと打診したのだ。相手の発言の趣旨が分かるやいなや、僕は「本当ですか!」と驚きの声を上げた。それまでの人生で最大級とも言える喜びがわき上がった。 検討会議の終了後、名刺を渡して硫黄島派遣を模索していると伝えた相手に、JYMAの赤木衛理事長がいたことを思い出した。男性は赤木氏から参考情報として「派遣を希望している社会人がいる」という連絡を受けていたのだという。 しかし、一方で僕は身構えた。 そもそも僕は学生ではない。中年の新聞記者だ。JYMAから推薦してもらったとしても、厚労省側が認めないのではないか。 とりあえず、回答期限を2週間後の8月下旬まで延ばしてもらい、電話を終えた。夏休みを終えた直後に、16日間の休暇取得を会社が認めてくれる確証はなかった。むしろ認められないだろう、と僕は思った。
それでも僕には使命がある
旅行から戻り、僕は赤木氏に連絡した。JR新橋駅近くのカフェで会うことになった。そこで僕が抱いていた不安が解消されることになった。 赤木氏からは、JYMAは過去にも社会人を推薦して派遣させた実績が少なからずあることなどを聞いた。驚いたのは、その中には現役の新聞記者もいたということだった。栗原さんに続いた記者がいたのだ。 栗原さんと大きく違ったのは、現地では一切、取材活動を行わなかったという点だ。やはり、遺骨収集現場の取材は不可なのだ。そのため、栗原さんが書いたような現地ルポは発信されなかった。いくら検索してもほかに現地ルポが見つからなかったのもそのはずだ、と思った。 僕は硫黄島上陸に向けた最後の課題に取りかかった。16日間の休暇取得だ。 この時期、僕は、遺骨収集を所管する厚生労働省の担当から外れ、東京五輪の取材班に加わっていた。2020年7月の五輪開幕まで1年を切っていた。五輪を巡っては各種競技会場の熱中症対策や、訪日客の宿泊施設不足など課題が山積状態だった。取材班は多忙を極めていた。この時期に半月も持ち場を離れ、同僚たちの負担を増やすことになるのだ。今後の会社員人生に間違いなく悪い影響を及ぼす行動だ。 しかし、それでも硫黄島の土を掘る使命は僕にはある、とぶれずに思った。相当な反対がない限りは意志を貫く決意だった。 つづく「「頭がそっくりない遺体が多い島なんだよ」…硫黄島に初上陸して目撃した「首なし兵士」の衝撃」では、硫黄島上陸翌日に始まった遺骨収集を衝撃レポートする。
酒井 聡平(北海道新聞記者)