引退した五輪銅メダリスト、立石諒が北島康介時代に喧嘩を売った意義
2013年に入ると188センチ、80キロの外国人選手並みの体躯から、ダイナミックな泳ぎを繰り出す小関也朱篤(現ミキハウス)が台頭。昨夏のリオ五輪の100m平泳ぎで5位、200mでは5位に入賞した。 そして、今年1月の東京都選手権200m平泳ぎ決勝では、リオ五輪で小関に次ぐ6位に入賞していた渡辺一平(早稲田大学)が2分6秒67で世界記録を更新する。この大会は「北島康介杯2017」と銘打たれていて、3年後の東京五輪へ向けて、平泳ぎのエース候補に躍り出た。 リオ五輪とその間の世界選手権で、平泳ぎの男子日本勢はメダルを獲得していない。ただ、世界記録保持者としては、山口から渡辺へと名前を刻み続けている。ちなみに、他の競泳種目における日本人の世界記録ホルダーは、男女を含めて一人もいない。 一方で競泳界全体を見ても、リオ五輪の個人メドレーの200mで銀、400mでは金メダルを獲得した22歳の萩野公介がニューリーダーへと成長。東洋大学を卒業した今春からはプロスイマーとしてブリヂストンと所属契約を、北島が代表取締役社長を務める事務所とマネジメント契約をそれぞれ結んだ。 こうした大きな「うねり」の源泉をたどっていくと、ロンドン五輪の男子200m平泳ぎ決勝に行き着く。アテネ、北京両五輪で4個の金メダルを獲得した偉大なスイマーが君臨した時代の「終焉」のはじまりと、北島に憧れる若手を中心とする新たな時代へ移行する触媒となったのが立石の銅メダルと言っていい。 北島自身も、かなうことならば自身の日本高校記録を破った立石に、バトンを託したいと考えていたようだ。立石が北京五輪の代表入りを逃した2008年の競泳日本選手権では、ふさぎ込む立石のもとにわざわざ歩み寄って「次があるからな」と声をかけている。 その後に立石が休養を兼ねて水泳からやや距離を置いていると、関係者を通じて携帯電話の番号を調べて直接激励してきたこともあった。移籍がこじれた立石がようやくNECグリーンスイミングクラブ玉川に移ると、専属コーチに就いた旧知の先輩にこんな声をかけてもいる。 「頼みますから、諒を本当に強くしてくださいよ」 そして、2012年の競泳日本選手権の100m、200mでともに北島が1位、立石が2位に入り、ロンドン五輪代表を決めると、お立ち台で横にいる立石を「努力しない天才です」といじった。これも最高峰の舞台で真の決着をつけよう、という北島ならではの激励だった。 ロンドン五輪後の立石は右ひじのけがや手術もあって、満足のいく成績を残せなかった。五輪の金メダル獲得と世界記録樹立で初めて北島からバトンを受け取ったことになる、と公言していただけに悔しさを募らせる日々も多かった。それでも、唯一出場した五輪の舞台で演じた一世一代の泳ぎは、金色の輝きとともに語り継がれていくはずだ。(文中敬称略) (文責・藤江直人/スポーツライター)