大河主役「蔦屋重三郎」苦難を飛躍に変えるスゴさ。江戸のメディア王と呼ばれ名作を世に送り出す
幕府からの罰金刑によって、出版業が立ち行かなくなるほど、重三郎は経営的なダメージを受けたわけではない。それでも、今後の出版活動に影響が出ることは避けられない。これまでと同じやり方では、また取り締まられてしまうからだ。 危機に直面したときには、いったん原点に戻ってみると、やるべきことを見えてきたりする。重三郎もまた、出版事業の路線変更を強いられるなかで、これまでの歩みを思い返していたのではないだろうか。
■吉原で引手茶屋を営む蔦屋に養子入り 重三郎は寛延3(1750)年正月7日、父・丸山重助と母・津与の子として、新吉原で生まれたとされている。9代将軍の徳川家重の治世にあたる頃で、家重が田沼意次を抜擢していくなかで、重三郎は青年へと成長を遂げていく。 父の重助は尾張出身で、職業は不明だが、吉原で何かしらの仕事をしていたのであろう。吉原は遊郭として有名だが、遊女屋を中心にしながらも、飲食店などもひしめいていた。
重三郎が7歳のときに母が丸山家を出て、両親は離別。吉原で引手茶屋を営む「蔦屋」へと、重三郎は養子入りすることになった。 吉原の地で生まれ育った重三郎が、小さな書店「耕書堂(こうしょどう)」を開業したのは安永元(1772)年、22歳のときのことである。義理の兄・蔦屋次郎兵衛の軒先を借りるかたちで、吉原大門口の五十間道に面した場所で開業。翌年には出版業をスタートさせている。 転機となったのは、吉原の案内書「吉原細見」の出版に乗り出したことである。いわゆる吉原のガイドブックだ。他社の「吉原細見」と差別化を図るべく、重三郎はレイアウトにいろいろな工夫を施した。吉原の内部を上下に分けて、遊女屋の並びを記すことで、使い勝手を良くしたのである。
さらに重三郎は従来の小型版から中型本へとサイズを変更。「利用者にとっていかに使いやすくするか」にこだわって、これまでにない「吉原細見」を完成させた。 その結果、重三郎の「吉原細見」は飛ぶように売れた。多くの読者に支持されて、シェアを拡大。開業してから約10年が経った天明3(1783)年には、蔦屋版の「吉原細見」が独占状態になった。 ■危機は路線変更の好機となる アイデア一つで、現状を大きく変えることができるのが、ビジネスの面白いところだ。起業して間もない頃の成功体験は幾度となく、重三郎の背中を押すことになった。その後、重三郎はさまざまな分野の本を出版して、事業を拡大させていくことになる。