藤原道長の娘・彰子のために和歌の専属契約を結んだ紫式部
平安貴族にとって、人に褒められるような歌を詠むことが人づきあいの要。そのために紫式部(むらさきしきぶ)のような有名人が女房として出仕することがあった。 紫式部のことを一条天皇の中宮彰子(ちゅうぐうしょうし)の家庭教師ということがある。では、具体的にどんな仕事をしていたのだろうか。 実は、家庭教師という仕事は、この時代にはなかった。紫式部は、身分の高い女性に仕えて世話をする女房という役目についていたのである。世話をするというと洗顔や洗髪の世話をしたり、着替えを手伝ったり、食事の際に給仕をしたりという身の回りのことをサポートする仕事を思い浮かべるかもしれない。これからも女房の仕事ではある。女房の中には中宮の話し相手になったり、読書や和歌の指導をしたりする者がおり、紫式部はこうした役目を担っていたのである。 では、なぜ和歌の指導を行うのかといえば、当時貴族のつきあいには歌がつきものだったからだ。当時はなにかにつけて歌が贈られてくる。これに対してすぐに歌を返さなければならない。また、即興で歌をつくる遊びもあった。つまり歌が詠めないようでは人の輪の中にも入ることができない。歌を詠むことは貴族にとって身につけなければならない教養のひとつであった。 しかし、一口に歌を詠むといってもこれがなかなか大変な作業である。決まりごとはたくさんある上、相手の詠んだ歌を理解してそれにふさわしい内容の歌を返さなければならない。かつて●●さんが詠んだ歌を踏まえて作りました、とケースも多いのでたくさんの和歌を知っていなければならない。 しかもいくら練習してもカラオケで上手に歌えない人がいるように、和歌もいくら勉強してもいまいちのものしか詠むことができないという人もいる。 そこで、当時の権力者、藤原定子(ふじわらのていし)の父親の藤原道隆(みちたか)や、藤原彰子の父親・藤原道長(みちなが)たちは、この勢力を背景に清少納言(せいしょうなごん)、紫式部、和泉式部(いずみしきぶ)といった当時名うての歌人たちを自分の娘の女房として迎え入れたのである。女房となった歌人は、人から贈られた和歌の解釈をしてこんな歌を返したらどうですかとアドバイスしたり、つくった和歌を添削したり、時には主人に成り代わって和歌を詠んだ。今で例えるならば『サラダ記念日』で有名な俵万智さんを和歌の指導役として専属契約を結んだようなものであろうか。 ところで、宮中には様々な思惑を抱いた人々が集まってくる。中には天皇に直接いうことができないので、妻である中宮から天皇に進言してもらいたいと願う者もいる。こうした者の相手をするのも女房の仕事のひとつである。当時、身分の高い若い女性は人前に出てはいけないとされていた。しかし、女房は人前に出て交渉事もこなさなければならない。貴族の女性が働くなんてとんでもないとされていた時代であった上、人前に出ることもある女房として出仕するのは父親や夫といった庇護者が亡くなるなど訳ありの女性ではなくてはならないという暗黙の了解があった。そのため女房達は「かわいそうに、あの人働かなくてはならないんですって」と蔑まれたという。 しかし、当時の最高権力者という庇護者がいたからこそ、彼女たちは、こうした人々の侮蔑に負けることなく創作活動を行うことができ、『枕草紙』、『源氏物語』、『和泉式部日記』という優れた作品が後世に残されたのであろう。
加唐 亜紀