ナベツネさんは「派閥を石原伸晃に譲れ」と…!元自民党副総裁・山崎拓が語る、渡邉恒雄と石原慎太郎に呼び出された夜のこと
料亭に出向くと…
山崎氏は1998年に近未来政治研究会(山崎派)を結成以来、長く派閥を率いたが、2012年に石原伸晃氏に領袖の座を譲った。これにも渡邉氏と氏家氏が関わっていたという。 「ナベツネさんに九段にある料亭に呼び出されて出向くと、そこにはナベツネさん、氏家さん、石原慎太郎さんが並んでいて、末席に伸晃氏がいた。『お前が引退するときは近未来を伸晃に譲れ』とのことだった。 私にとって石原さんは恩人。石原さんは1968年に参院選全国区に立候補し、史上初の300万超の得票で初当選した後、1972年の衆院選でくら替えした。このとき、私も無所属で出馬して初当選した。我々は1972年衆院選の初当選同期という間柄だった。 私は1969年の衆院選にも無所属で出馬したが、落選していた。私にとって二度目の挑戦。やはり厳しい戦いだったが、石原さんは自分の選挙があるにもかかわらず、福岡まで応援に駆けつけてくれた。石原さんの知名度は抜群で、選挙終盤に応援してもらったおかげで奇跡的な当選を果たせた。私はいまでも国民に真に人気のあった政治家は中曽根康弘、石原慎太郎、小泉純一郎だけだと考えている。1万人の聴衆を集めることができたのはこの3人だけ。 石原さんは息子の伸晃氏を溺愛していた。石原さんはそのために、ナベツネさんと氏家さんを動員したのでしょう。まさに断ることができない状態であり、その場で『わかりました』と言うしかなかった。私自身は石原さんに恩返ししたいと長年思っていたが、いろいろな意味で忘れられない夜になった」
戦後政治の「最後の生き証人」
山崎氏は続ける。 「その会談の席ではカラオケも行われ、私はビリーバンバンの『白いブランコ』を歌ったが、石原さんは『そんな女々しい歌を歌うな。俺のように勇ましい歌を歌え』と怒り、石原裕次郎さんの歌を披露した。『俺は裕次郎より歌が上手い』と豪語していたが、実際に上手かった。この日、氏家さんも伸晃氏も歌ったが、ナベツネさんだけは頑として歌わず、『歌なんか歌うか』と話していた。石原さんの頼みに付き合ったということでしょう。 結局、伸晃氏に近未来政治研究会を継承してもらうことになったが、甘利(明)氏と武部(勤)氏は自分たちが後継者に指名されると思っていた。派閥に入会して3年くらいの伸晃氏が後継者に指名されるとは思わず、2人とも怒ってその場からいなくなってしまった。2人から相当恨まれましたが、これもナベツネさんのせいです(笑)」 山崎氏は渡邉氏を「政治権力に取り憑かれる人」と評する。 「政治に関わったが、政治家になろうとはしなかった。政治家をコントロールするほうが好きだった。頂点までいけば別だが、イチ国会議員よりもメディアのトップのほうがはるかに力を持っている。あの人はそれを理解していた。 私は安倍(晋三)政権とは距離を置いたが、ナベツネさんは安倍さんに肩入れするようになった。それ以来、個人的に会う機会も少なくなったが、ナベツネさんのようなスケールの大きい人物がいなくなるのはさみしいもの。あのような人は二度と現れないのではないか」 こう言うと、山崎氏は戦後政治の表も裏も目の当たりにしてきた「最後の生き証人」の冥福を祈った。 ……・・ 【もっと読む】渡邉恒雄という男の「すさまじい政治手腕」の実態…その日、ナベツネに野中はひれ伏した
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