【マキ上田連載#9】初めてのベルトにプロレス入りを反対していた母も大喜びでした
【マキ上田 ビューティ・ペアかけめぐる3年間の軌跡(9)】1976年2月にジャッキー(佐藤)とのタッグ「ビューティ・ペア」でWWWA世界タッグ王座を獲得しました。その年の6月ついにWWWA世界シングル王者のジャンボ宮本に挑戦することになったんです。しかも場所は地元鳥取で初めての凱旋大会。家族や友達、知らない親戚までたくさんの人が会場に来てくれました。 【写真】マキ上田の華麗なドロップキック! 全日本女子プロレスに入門してからは一度も家族に連絡していなかったから1年ぶりの再会になってしまって…。自分よりも周りが盛り上がってましたね。自分自身もレスラー人生で一番覚えている試合はジャンボとのタイトルマッチかな。ジャンボは体格がよくて、身長は私の方が大きかったけど、体重が私よりも重たかった。当時スープレックスとかブレーンバスターとか投げ技を使ってたけど、彼女には使ってないと思う。ただ俊敏に動くタイプではないから、うまく捕まえて勝ったんじゃないかな。 初めてベルトを腰に巻いた時はうれしかったですよ。この世界に入れたお父さんも相当喜んでたし、祖父母もとてもうれしかったようで「うちの孫がチャンピオンになった」って自慢していたみたい。プロレス入りを猛反対してたお母さんも私のベルト姿には大喜びでしたね。そのベルトを半年くらいは持ってたんじゃないかな。 5月にユカリ・レンチとジャッキー・ウエスト組に取られたタッグベルトも7月にビューティで取り返し、しばらく2冠王な時間があった気がします。その後、ジャンボが引退をかけて私の持つベルトに挑戦してきて。私が勝って防衛したと同時に彼女の引退が決まったんです。とにかく明るくて全く威張ることもない先輩だったね。 11月くらいにWWWA世界シングル王座戦で赤城マリ子に足4の字固めを決められて失神したらしい。あれは想像していなかった。たぶん、我慢強く育てられたから足4の字も、どうしてもギブアップはしたくなくて我慢したんだろうね。彼女は自分の世界にこもるタイプの人だったから私は特にしゃべることはなかったけど、冷たそうなイメージはあった。 団体で唯一犬を飼ってて、巡業のバスの中でもいつも犬と2人きりの世界って感じだった。今風で例えたらジャガー(横田)に似てるかな。先輩後輩で厳しいわけじゃなかったけど、後輩が売れてちょっと嫌だったとかはありそうだけど、どうだろうな。 シングルのベルトを失ったころに、デビュー曲「かけめぐる青春」が発売されて、ジャッキーとともに大忙しになりました。練習時間もないから試合もぶっつけ本番。ただ…仕事が増えたけど、お給料はまったく増えなかったんです。それはまた次の回で話しますね。
マキ上田