薩長同盟の起点におけるキーマン、中岡慎太郎はどのような人物だったのか?五卿をめぐる中岡と西郷隆盛の会談
(町田 明広:歴史学者) ■ 薩長同盟の一般的理解 読者の皆さんにとって、“薩長同盟”は幕末の画期となった出来事として記憶されているのではなかろうか。薩長同盟があって初めて、明治維新が成し遂げられたと思われていることは、否定できない事実であろう。最初に、その一般的理解とはどのようなものなのか、筆者なりに表現してみよう。 【写真】中岡慎太郎の生家(復元) 八月十八日政変以降、犬猿の仲となった薩長両藩を仲介し、 何とか連携にもっていきたい坂本龍馬は、長州藩が欲しがっている軍艦や武器を薩摩藩名義で購入し、長州藩に横流しすることを思いつき、西郷隆盛を口説いて了解させた。長州藩が軍需品を長崎で購入できたことにより、 薩長両藩の関係は改善され始めた。慶応2年(1866)1月8日、木戸孝允は京都薩摩藩邸に潜入したが、 お互いのメンツがぶつかり、会談らしい会談はなかった。21日、ちょうど上京した龍馬が煮え切れない両者を叱り飛ばして会談させ、また証人となり、小松帯刀・西郷と木戸との間で6箇条からなる薩長同盟が成立した。 なぜこのように語られるようになったのか、その経緯を追うことは、今回のシリーズでは控えるが、一般的理解から見えることは、まさに龍馬の独壇場であることだ。しかし、本当に薩長同盟は龍馬だけの尽力のみで、成し遂げることが出来たのだろうか。特に、その契機は言われるように、龍馬を介した薩摩藩の名義貸しによる長州藩の武器購入だったのだろうか。 筆者は、薩長同盟の起点におけるキーマンとして、龍馬のみならず、むしろ中岡慎太郎の存在を忘れてはならないと考えている。今回は4回にわたって、薩長同盟の起点に中岡が存在し、その後の同盟成立に大きな影響を与えたことを紐解いてみたい。
■ 中岡慎太郎とは、どのような人物なのか? 最初に、中岡慎太郎について、簡単に紹介しておこう。中岡は、言わずと知れた筋金入りの幕末の尊王志士である。土佐国安芸郡北川郷(高知県北川村)の大庄屋である小伝次の長男として、天保9年(1838)に生まれた。名は道正、初め光次と称し、のち慎太郎と改めた。 学問を間崎哲馬に、剣を武市瑞山に学び、国事に目覚めて尊王志士になる素地ができた。安政4年(1857)、中岡は大庄屋見習となり、父を助けながら国事に関わる機会を待ち続けた。文久元年(1861)、武市らが土佐勤王党を結成すると、ただちに加盟して本格的に国事周旋活動にまい進し始めたのだ。同2年(1862)には、同志50人とともに京都や江戸に出て、いわゆる尊王攘夷運動に参加し、同3年(1863)に帰郷した。 八月十八日の政変後、山内容堂による藩レベルでの勤王党弾圧が激化したため、脱藩して周防三田尻に赴き、これ以降は長州藩をバックに活動を行った。元治元年(1864)、禁門の変では忠勇隊とともに戦闘に加わり、負傷して長州に撤退を余儀なくされた。この後、三条実美の側近となり、薩長同盟の成立を画策することになったのだ。 慶応3年(1867)、土佐藩より復籍は叶わなかったものの脱藩は許され、龍馬とともに薩土盟約の仲介人となった。土佐藩の遊軍として、龍馬は海援隊、中岡は京都で浪士を集め、陸援隊を組織して廃幕に向けた武力発動の一翼を担った。 徳川慶喜による大政奉還後の11月15日夜、京都河原町の下宿近江屋に龍馬を訪れて会談中、幕府見廻組の襲撃を受け、2日後の17日に絶命した。死の直前に、「岩倉卿(具視)に、王政復古はひとえに卿の御力にかかっていると、伝言を頼む」との言葉を残しており、中岡は岩倉具視とともに、倒幕戦略を練っていたことが確認できる。それにしても、明治の廟堂に立つべき人物がここに斃れたことは、実に惜しい。