娘・妍子に仕えた姉妹を2人とも妾にした道長 アラフィフになっても娘の女房に手を出した!?
■花山院の元愛人と若くして未亡人となった姉妹 道長と源倫子の間に生まれた次女・妍子は、居貞親王(後の三条天皇)に嫁いだ。やがて、三条天皇が即位すると、中宮となる。そんな妍子のもとで女房として仕えていたのが、藤原儼子(げんし/たけこ)だった。 儼子は藤原為光と藤原伊尹の娘の間に生まれた姫で、花山院が天皇の位にあった頃に愛した女御・忯子の妹でもある。そして、姉が亡くなった後、いつの頃からか花山院に深く寵愛されるようになった。中関白家没落の引き金となった長徳の変は、花山院がこの儼子のもとに通っていたのを、伊周が自分の恋人である三の君のもとに通っていると勘違いしたことに端を発する。 父の為光は正暦3年(992)年に既に亡くなっており、その後花山院も崩御して、儼子は強力な後ろ盾を失ってしまう。道長に近しい存在だった兄・斉信の勧めかどうかはわからないが、儼子は道長の娘・妍子に仕える女房となった。やがて、道長の愛も受け入れて、妾になるのである。『尊卑分脈』には、彼女が道長の妾であったと記されている。 儼子は道長の子を身ごもり、長和5年(1016)に出産に臨んだ。しかし、残念ながら死産であり、儼子自身もこの出産によって命を落としてしまう。この出来事は藤原実資の『小右記』長和5年正月21日条に記載されている。 さて、道長はもう1人、妍子の女房に目をつけていた。その名を藤原穠子という。彼女もまた、為光の娘であり、儼子の妹にあたる女性だった。元々別の男性に嫁いでいたが、死別して未亡人になり、妍子のもとに出仕し始めたという。彼女が道長の子を身ごもった記録はなく、後に妍子の娘である禎子内親王の女房としても働いた。 2人がそれぞれいつから妾だったのかは不明だが、少なくとも姉の儼子は花山院が崩御した寛弘5年(1008)以降であると考えられる。また、妹の穠子は姉よりも後に妾になったと考えられていることから、道長が43歳~51歳の間に儼子を妾にし、その間もしくはそれ以降の期間に穠子との関係もあったことになる。 ちなみに、道長には妾ではなく召人(めしうど)という、妾になり得ない愛人もいた。それが道長の長女・彰子の女房で紫式部の同僚でもあった大納言の君(源簾子)である。『栄花物語』では、この関係は正妻・倫子にバレたが、「まあ簾子ならば仕方がないので見逃しましょう」ということになった。なにせこの簾子、倫子の姪にあたる姫だ。倫子にしてみればどこぞの女性と真剣な恋愛関係になるよりは、身元のはっきりした簾子との割り切った関係の方が許せたのかもしれない。 そういうわけで、道長は正妻の倫子と、妾妻とはいえ重んじられた明子を別格として、妾や召人とした女性もそれなりにいた。そして、少なくともそのうち3人は娘の女房から選んでいるのである。倫子や明子のように子をたくさんもうけたわけでもなく、記録にもそれほど登場しない彼女たちに道長がどれくらい愛情を向けたのかは、残念ながらわからない。
歴史人編集部