クインシー・ジョーンズという功績 音楽とともに生きたその人生
暴力の街シカゴ・サウスサイドの貧しい家庭で生まれ育ったクインシー
ポップのヒットソングでもテレビ番組向けの音楽でも、ジョーンズは常に先進的な作品制作を心がけていた。プロデューサーの多くは、自分らしいサウンドが構築された時点で進化を止めてしまうが、ジョーンズの場合は違う。決して過去に囚われることなく進化を続けたクインシー・ジョーンズの名は、各年代のナンバー1ヒット・シングルにクレジットされている。「1953年に始めてフェンダー・ベースを手にした。1939年式のエレクトリック・ギターを継承するフェンダー・ベースがこの世に現れなかったら、ロックンロールもモータウンも誕生していなかっただろう」と彼は、ローリングストーン誌に語っている。「最初にフェンダー・ベースを使ったジャズ作品は、アート・ファーマーの楽曲“Work of Art”(プレスティッジ・レコード)だった。それからテレビ番組『鬼警部アイアンサイド(原題:Ironside)』のテーマ曲では、初めてシンセサイザーを導入した。」 当時最新のキーボードとプログラミング技術を駆使したマイケル・ジャクソン作品は、30年が経った今でも新鮮さを失っていない。ホイットニー・ヒューストンをプロデュースしたナラダ・マイケル・ウォルデンはローリングストーン誌とのインタビューで「クインシーの哲学は、ペントハウスの眺めを楽しめる屋外トイレのようだ」と表現している。「下では悪臭が漂うが、上からは素晴らしい景色を望める。だからバーやクラブでも、ヨットの上でも、どんな場所にもマッチする音楽なんだ。」 ヒット・シングルを連発し、グラミー賞に79の記録的なノミネート数と28度の受賞数を誇るジョーンズだが、元々は暴力の街シカゴ・サウスサイドの貧しい家庭で生まれ育った。ジョーンズが生まれたのは、世界恐慌真っただ中の1933年3月14日だった。彼の母親は精神病を患っており、ジョーンズが幼い頃に精神療養所に収容された。ジョーンズと弟のロイドはしばらくの間、ケンタッキー州ルイビルにある電気も通っていない掘っ立て小屋のような祖母の家で暮らしていたが、その後シカゴへと戻った。それから兄弟は、第二次世界大戦中に海軍基地での仕事を得た大工の父親と共に、ワシントン州へと移り住んだ。 ジョーンズの自叙伝『Q』によると、当時はシンクレア・ハイツに近い軍の野営地から銃や弾薬を盗み出す傍ら、音楽の勉強に没頭していたという。ある時、基地のレクリエーションセンターへ忍び込みレモン・メレンゲパイを盗み食いしていたジョーンズは、置いてあったピアノの鍵盤を何の気なしに叩いてみた。たった数音弾いただけで、彼は夢中になった。「その時初めて心の安らぎを覚えた」とジョーンズは書いている。「11歳だった私は、これこそが自分の生きる道だと確信した。永遠にね。」 それからジョーンズは音楽に没頭した。アカペラ・グループで歌い、父親に殴られるのを覚悟で、ミュージシャンたちの生の演奏を見るために地元の居酒屋へ通った。さらに、通学前の明け方、ジャズ・トランペッターのクラーク・テリーにレッスンして欲しいと願い出たこともある。そして13歳になる頃には既に、ジャズのビッグ・バンド向けの編曲に挑戦するまでになっていた。 戦後ジョーンズ一家がシアトルへ引っ越すと、ジョーンズの音楽熱もさらにヒートアップした。14歳の時、当時から将来を嘱望されていた地元ミュージシャンのレイ・チャールズと友人になる。その後ジョーンズは、いくつかのバンドでも演奏するようになった。「シアトル・テニス・クラブなどで、毎週末の夜7時から10時まで演奏していた。演奏していたのはポップミュージックさ」とジョーンズは自叙伝の中で振り返っている。「その後深夜1時までは黒人酒場を回ってストリッパーの後ろでR&Bを演奏し、それから明け方までビボップのジャムセッション、という毎日だった」と彼は語る。ビリー・ホリデイのシアトルでのコンサートでは、他の地元ミュージシャンと共にバックバンドに加わった。15歳の時、ジャズ界の巨匠ライオネル・ハンプトンに見出され、正式なツアーメンバーに誘われたものの、ハンプトンの妻が、まずは学校を出るよう強く勧めた。 シアトル大学で一学期を終えたジョーンズは、東海岸にあるバークリー音楽大学(当時の名称はシリンガー音楽院)へと移る。ジャズの本拠地ニューヨーク・シティにも近づくこととなった。その後ジョーンズは、ハンプトンのバンドにトランペット奏者として加入し、アメリカ国内とヨーロッパを回りながらスキルを磨いた。しかし過密なツアースケジュールと低賃金に嫌気が差したジョーンズは、間もなくバンドを脱退する。その後のジョーンズは、作曲、編曲、セッションでのバンドの指揮、そしてレコーディングのプロデュースまでこなす一人四役の才能を発揮して、キャノンボール・アダレイ、ディジー・ガレスピー、カウント・ベイシー、サラ・ヴォーン、ダイナ・ワシントンといったジャズ界の巨匠たちのアルバムに名前がクレジットされるまでになった。 1957年、パリへ渡ったジョーンズはバークレー・レコードでの仕事に就いた。パリで彼は、弦楽器を使った編曲も任された。当時アメリカでは、弦楽器の編曲は白人編曲家に限られていた、とジョーンズの友人でもあるボビー・タッカーは証言する。タッカーとジョーンズとは、ビリー・エクスタインの作品でコラボレーションしている。フランス時代にジョーンズは、20世紀の偉大なクラシック音楽家を多く育てたナディア・ブーランジェに師事した。そしてわずか25歳で、フランク・シナトラのモナコでのステージを支える55人編成のオーケストラの指揮を任された。ジョーンズによるカウント・ベイシー・バンドの指揮と編曲での仕事ぶりを高く評価したフランク・“ザ・ヴォイス”・シナトラは、1964年にラスベガスを皮切りとするツアーで、バンド全体をジョーンズに任せた。 60年代初頭にジョーンズは、記憶に残るポップ・シングルを作る才能を開花させた。マーキュリー・レコードでA&Rとして働いていたジョーンズは、レーベル創設者のアーヴィン・グリーンから「君の作品は音楽的に素晴らしい。我々の売上にも貢献して欲しい」と言われたという。間もなくジョーンズはレスリー・ゴーアをプロデュースし、1963年から65年の間に10曲をトップ40入りさせた。全てが、今なおポップの名作となっている。彼はあらゆるシーンで引っ張りだことなり、ハリウッドへも進出した。当時は黒人の映画作曲家が珍しい存在で、「白人」映画の音楽を黒人が担当することなど滅多になかった。そのような状況の中でもジョーンズは業界内の差別と徹底的に戦い、トルーマン・カポーティ原作の映画『冷血(原題:In Cold Blood)』やシドニー・ポワティエ主演の映画『夜の大捜査線(原題:In the Heat of the Night)』をはじめ、多くの映画やテレビ番組の音楽を手がけた。 1974年にジョーンズは、動脈瘤による2度の救命手術を受けている。動脈瘤に過度な圧力をかける恐れがあるため、彼のトランペット人生はここで終わりを告げた。同時に、膨大な作業が体にかなりの負担となる作曲活動についても、距離を置くようになった。一方でジョーンズは、ミニー・リパートン、アル・ジャロウ、ルーサー・ヴァンドロスら優美なシンガーたちや、リオン・ウェア(マーヴィン・ゲイやダイアナ・ロス作品)、ルイス・E・ジョンソン(後にファンク・バンドのザ・ブラザーズ・ジョンソンを結成し、マイケル・ジャクソンの楽曲「ビリー・ジーン(原題:Billie Jean)」でベースを担当)といった才能あるミュージシャンともコラボレーションした。