内戦勃発から13年...シリア政権スピード崩壊の背景に「独裁者アサドの猜疑心」
軍事クーデターを防ぐため軍部を骨抜きにしたツケ、ロシアとイランの支援が消えたら失脚は速かった
シリアのアサド政権は12月8日の日曜にあっけなく崩壊した。【ベンジャミン・バイマン(K2インテグリティ アソシエート)】 【独占:トニー・ブレア英元首相・中東和平インタビューの映像】 急展開の背景には、反政府勢力が戦闘能力を高めたこともある。反政府派を率いたシャーム解放機構(HTS)は自爆ドローン(無人機)や自作の巡航ミサイルを活用し、敵陣深く潜入して暗殺を行うなど独自の戦法を編み出した。 寄り合い所帯の反政府派が「打倒アサド」で一致団結したことも見逃せない。 だが世界を見渡せば、同レベルの手ごわい武装勢力を相手にしても、そう簡単には倒れず、反政府派の完全制圧に成功した政権すらある。 13年間続いたシリア内戦では政府軍のふがいない戦いぶりが目につく局面が多かった。政府軍がとうとうその根底的な弱さを露呈し、政権崩壊に至ったというのが実情だろう。 反政府派の攻勢を前に、大統領の座をあっさり捨ててロシアに逃げたバシャル・アサド。彼とその父親で前任者のハフェズ・アサドが最も恐れていたのは軍事クーデターだ。 父子にとっては、それを防ぐ措置が最優先だった。 中東では1945年以降、2011年にシリア内戦が始まるまで、独裁政権は国内の反乱軍や外国の侵略軍よりも、自国の軍部に倒されるケースのほうが多かった。 ことにシリアでは、軍人上がりのハフェズ・アサドがクーデターで政権を握った1970年まで、約20年間も軍部が仕組んだ政変劇が繰り返された。 ハフェズは力ずくの政権交代を自分の代で終わりにしようと、後継者のバシャルともども、軍人の政治的野望をくじくことに全力を注いだ。そのためには政府軍の弱体化もいとわないほどの念の入れようだった。 アサド父子が手がけたクーデター防止策は多岐にわたる。 軍隊内部の意思疎通を非効率化する、軍上層部を自分たちに忠実な人物で固める、兵士の訓練を怠る、複数の情報機関を設置し、軍と互いを監視させる等々。 おかげでクーデターのリスクは抑えられたが、政府軍の戦闘能力は低下し、イスラエルのような外国の強力な軍隊はおろか、国内の反乱軍にも太刀打ちできなくなった。 【恐怖支配で兵士の脱走を防ぐ】 アサド父子は、軍上層部を少数の親族や自分たちに絶対的な忠誠を誓うイエスマンで固めた。ハフェズは軍隊を5軍編成にした。 兵員数からすれば9軍編成も可能だったが、各軍のトップに据える信頼できる人物が5人しかいなかったからだ。 各軍の横の連携も取りづらくした。そのため内戦勃発まで、さらにそれ以降も、政府軍は編成のまずさと連携の欠如にたたられ続けた。 指揮官同士が口論し、部隊によって戦闘目標が食い違うため、兵士たちは上官の命令に従わず、勝手に判断する始末。上級将校同士が取っ組み合いのけんかをし、銃を撃ち合うこともあった。 内戦勃発後にバシャル・アサドが反政府派を抑え込めなかった理由はほかにもある。 各軍の情報機関の管轄が重複し、情報が共有されず、市街戦の訓練が不十分だったことなどだ。 アサドは長年にわたり自分の属するイスラム教アラウィ派の兵士を優先的に上位の階級に昇進させてきた。そのため政府軍の多数を占めるイスラム教スンニ派の兵士の間では不満がくすぶっていた。 中東全域を揺るがした民主化運動「アラブの春」がシリア各地に広がったとき、アサドが真っ先に心配したのは、デモ参加者の声を聞いて兵士がそちらになびくことだ。そうなればデモの鎮圧どころではなくなる。 そのため特に忠誠心が疑われる部隊には外出禁止令を出し、兵士が市民と接触しないようにした。加えて少しでも反抗的な態度が見られた兵士や将官は片っ端から拘束し、拷問するか銃殺刑に処した。 こうした荒っぽい統制により内戦初期には兵士の大量脱走を防げたが、戦闘の最中に個々の兵士、あるいは小隊が丸ごと戦線離脱するケースが相次いだ。 兵士たちが非武装のデモ参加者に容赦なく銃口を向けるよう、軍上層部はユニークな策略を編み出した。 デモ隊と対峙する政府軍部隊の後方に狙撃兵を配置し、市民を銃撃することをためらう兵士がいたら即座に銃殺し、見せしめにするのだ。