「夢に向かって努力」根性美徳の日本人、団塊世代大衆になぜ多かったのか?
2 人口増加と内部指向の登場
工業化が始まると衛生状態や医療体制が整ってくるため死亡率が減ってきます。他方、子供の数はすぐには減らないので人口は急速に増え始めます。リースマンが過渡的成長期と呼ぶ時期が始まります。 人口が増える社会では、すべての子供が親のあとを継ぐというわけにはいかなくなります。長男、長女が親のあとを継ぐとすると、次男、三男や次女、三女は親元を離れて多くは都市へと出て行きました。中には海外に出て行った人もいることでしょう。 日本でも1960年代の高度成長期には、多くの若者が都会に就職していきました。工場で働く人もいれば、販売業に従事する人も少なくありませんでした。東京のお風呂屋さんやお豆腐屋さんには、新潟や富山といった日本海側の地域出身の人が多いといわれます。朝早くから冷たい水を使う仕事は厳しいものですが、地道に努力を重ねることで新天地での生活を築きあげていった人たちが多かったのです。 伝統社会の子供たちが「親と同じ」生活を送ったのと対照的に、人口増加期の子供たちの多くは住む地域も就く職業も「親と違う」生活を送ることを運命付けられたのでした。子供の教育も「これまで通り」、「伝統やしきたりを尊ぶ」ことから、様変わりをします。この時期の子供たちは例えば次のように言われて育ちました。 「どこにいっても一生懸命努力しなさい。お天道様はきっとそれを見てくれているから」。夢や目標に向かって一生懸命に努力する。こういう心理傾向をリースマンは内部指向と名づけました。 夢に向かって努力することがなぜ「内部」指向なのか、少し分りにくい表現ですね。リースマンは当時の最新技術であるジャイロスコープを例に引いて説明しています。ジャイロとは回っているコマが一定の方向を向こうとする性質のことで、この性質を利用して方向を指示する装置がジャイロスコープです。船や飛行機などの進路を保つのに用いられました。 リースマンは、夢に向かって日々の行動を律する心理システムをジャイロスコープに例え、心の中に内蔵されたジャイロスコープに従う心理傾向を内部指向と呼んだのでした。