駒込は江戸時代から風情たっぷりの「花の駅」
庶民的な駒込銀座通り
駒込駅は橋上駅と書いたが、ホームの田端寄りには下りの階段も穿(うが)たれている。ツツジが植えられた左右の土手が尽きるあたりで沿道を眺めると、田端方面へ向かって急な下り坂となっているのがわかるだろう。つまり、坂道の先は低地をなしており、この部分で駅は盛り土を築き高架となっているのだ。階段をおりた先は東口の改札。駒込駅は橋上と高架の構造が並存しているのである。 前々回に訪れた大塚駅の周辺は谷端(やばた)川が台地を削った谷地だったが、駒込駅東口の低地をつくりだしたのは谷田(やた)川という、やはりいまは暗渠(あんきょ)となっている流れである。上野の不忍池(しのばずのいけ)へ注いでいたといわれ、北区内の「谷田川通り」にその名が残る。 東口の小さな改札を出て左手(北側)へ向かえば駒込銀座通り、右へ出ればアザレア通りが迎える。これらの通りが豊島区と北区の境で、ホームの先端は北区側に少しはみ出している。 “銀座”の響きに惹(ひ)かれて駒込銀座通りに足を向けてみると、どこにでもある庶民的な駅前商店街の趣きである。道ばたのバナーにはなぜか「さつき通り」と書かれており、認識していた通り名とは異なるけれど、いまさら“銀座”でもないということか。横丁へ入ると、以前は風俗店もいくつか見られたらしいが、いまは小学生も平気で通行する健全な通りだ。 一方のアゼリア通り。昔の地図には「駒込東銀座通り」と記されているものの、こちらの商店街も「アゼリア通り」を定着させたいのだろう。コンビニやドラッグストアー、飲食店、八百屋など、やはり下町風の駅前商店が連なる。じつは、駅から100mも行ったあたりは、かつての花街だったという。昭和のはじめには料亭が建ち並び、芸者衆も数百人が控える歓楽街だったらしいのだが、そんな面影は微塵も感じられない。
名勝「六義園」と大和郷
文字どおりの“下町”探訪を切り上げ、急坂を上がって駅の北口前から六義園をめざす。本郷通りが線路を跨ぐ橋は駒込橋。鋳鉄(ちゅうてつ)製の欄干(らんかん)には、富士と桜の意匠がほどこされている。もう、ここから富士山を望むのは難しいだろうけれど、「富士」と「桜」といえば、日本で最初に命名された特急の愛称だった。1929(昭和4)年9月のダイヤ改正で、東京と下関を結ぶ1・2等特急に〈富士〉、3等編成の特急に〈櫻〉の愛称が初めてつけられたのである。 六義園についての詳述は不要だろう。徳川幕府五代将軍・綱吉の信任厚かった柳澤吉保(やなぎさわ よしやす)が作庭した「回遊式築山泉水」の名園だ。広さは東京ドーム2個分弱あり、将軍綱吉もたびたび訪れたとか。三菱財閥の祖、岩崎彌太郎(いわさき やたろう)が1878(明治11)年に近隣の土地とともにこれを買い入れ、維新以後に荒れはてていた庭を修復保存して、岩崎家駒込別邸を構えたのである。 彌太郎の没後、跡を襲(おそ)った弟の彌之助(やのすけ)は、彌太郎の嗣子(しし)・久彌(ひさや)と語らい、日露戦争における海軍の凱旋将卒6000人をここに招待して、園遊会を開いたこともあった。大正時代には、池を埋めるほどに飛来する数千羽の野鴨めあてに、鴨狩りが行なわれたとの記録も伝わる。 1938(昭和13)年に、六義園は岩崎家から当時の東京市へ寄付された。 六義園でまだ鴨狩りが催されていた時分、周辺の岩崎家所有地はまだ大部分が山林だったが、1919(大正8)年からこれら原野を切り拓き、宅地として分譲することになった。六義園をコの字型に囲んで格子状に区画された造成地は「大和郷(やまとむら)」と名づけられた。100~150坪を最低限度に宅地規模を統一したほか、上下水道はもちろん電灯線・電話線も地下化するなど、岩崎久彌が考える“理想都市”の実現をめざしたのである。 いま、現地を歩いてみれば、なるほど区画の大きな豪邸だらけで、東口周辺の“下町“の風情とは大違いだ。むやみにカメラなど向けると、強盗の下見かと疑われかねない物騒な世の中なので写真は控えるけれど、自治会の掲示板には「大和郷会掲示板」とあり、「大和郷」の名が現在も生きていた。
辻 聡