50年間「無遅刻・無欠席」ストイックすぎる伝説の大女優・高峰秀子が「電話を毛嫌い」したワケ
■忘れ物などは皆無「つい、うっかり」とは無縁の人 用心深く、準備万端。先の「置いていきますよ」のエピソードのとき、私が座席に落ち着くと、高峰の足元に本が何冊も入った紙袋が置かれていた。 「これ、何?」、私が訊くと、 「銀ネズや錆朱(さびしゅ)、濃紺と口で言ってもわかりにくいから、その色が載ってる本を持っていくんです」 あ、と思った。 私は自分の本であるにもかかわらず、ただ体だけ運んでデザイナーと会おうとしていた。 月刊文藝春秋の「私の東京散歩」というグラビアに出てくれと私が口説いて出てもらったことがある。撮影は夏だった。その日、鳥居坂の国際文化会館でカメラマンに会うと、もちろん高峰と私は約束の時間より15分早く行ったのだが、来たカメラマンに高峰は「こんなものも持ってきてみたの」。それは薄いストールだった。次に彼女が言ったのは、 「雑誌は10月に出るって言ってたから」 いや、参った。 忘れ物など皆無、探し物をしている姿も見たことがない。つい、うっかりとは無縁の人だった。 ■生活の中で見た、高峰のたった2つの失敗 松山の証言、「かあちゃんは結婚して50年、皿一枚割ったことがない」。 私が知っている高峰の失敗は2つだけ。未開封の乾燥ひじきの袋をザッとばかりゾーリンゲンのハサミで切ったとき、「あ、このジップロックの上を切らなきゃ」、私が言うと、高峰も「あッ」。 もう一つは、夕飯に豚汁を作ってくれたとき。高峰も松山も晩酌をたしなむので、食事が終わる頃には高峰も頬がピンク色に染まりほろ酔い加減だ。食べ終わった朱塗りの大椀をカウンターに運ぼうとして、高峰がポロッと落とした。椀の底に残っていたニンジンやコンニャク、汁がカウンターの足元の絨毯にこぼれた。「大丈夫だよ」と私は具を拾い、松山はカウンターの向うからフキンを渡してくれた。 1カ月後、写真集のために部屋で撮影をすることになっていたのだが、高峰は玄関から階段、居間、寝室、書斎まですべて絨毯を張り替えたのだ。私は驚いて「全部替えたの? 絨毯は殆ど写らないのに」。と、高峰がケロリと「だって、あんたがこの間、豚汁こぼしたからね」。 えぇ~! 私? 他人に迷惑をかけないを厳に守り、そしてユーモアの達人。高峰秀子とはそういう人だった。 ※本稿は、雑誌『プレジデント』(2024年10月4日号)の一部を再編集したものです。 ---------- 斎藤 明美(さいとう・あけみ) 文筆家 1956年、高知県生まれ。津田塾大学卒業。高校教師からテレビ構成作家を経て、週刊文春記者を20年務める。以後フリーとなり、著書に『最後の日本人』『高峰秀子の流儀』『高峰秀子が愛した男』など。2009年、長く親交のあった松山善三と高峰秀子の養女となる。 ----------
文筆家 斎藤 明美 写真提供=斎藤明美