日本の動物愛護法制定のはじまりは犬を利用した悪徳ビジネスだった 昭和最大の犬の事件「東京畜犬事件」
日本人と犬は長らくパートナーとして生きてきたが、それ故に犬たちが人間の悪意に利用されることもしばしばあった。今回は、昭和史に残る犬に関する事件、「東京畜犬事件」を取り上げる。 ■悪徳ビジネスに利用された犬たち 犬をめぐる平成最大の事件が「埼玉愛犬家連続殺人」で、背後にバブル崩壊後の空気を感じさせるのに対し、昭和最大の事件と言えば「東京畜犬事件」だろう。 東京畜犬は、昭和38年(1953年)に設立された会社である。犬のオーナー制度と銘打ってテレビで派手にCMを流し、ねずみ講的な仕組みで犬を売った。純血種の犬をイギリスから直輸入し、保証金を受け取って買い主と飼養契約を結ぶのである。 3ヶ月以内に死亡すれば代替犬をもらえる。指定のドッグフードを購入すれば医療費は無料で、獣医師は東京畜犬が派遣する。子犬が生まれたら、1頭につき保証金の12.5%が支払われる。つまり、8頭生まれれば補償金は回収できる仕組みになっていた。 まだ拾ってきた犬を飼う人も多かった時代に、純血種を買うことができて、子犬が生まれれば儲けも出る。飼養契約を結んでいない飼い主も、指定のドッグフードを購入すれば診察代が4分の1になる。そんなうまい話があるわけない。しかし、多くの人がこの儲け話に乗った。 だが、やがて体調を崩す犬が続出する。そこで、ある契約者が犬を動物病院に連れていき診察を受けたところ、ジステンパーにかかっていることが判明した。診察した獣医師は間もなく、東京畜犬の犬が次々にジステンパーで来院するのを不思議に思うようになった。やがて問題が明るみに出る。 昭和45年(1970年)になると新聞やテレビが報道するようになり、東京都衛生局(現東京都福祉保健局)も動き出した。結局、東京畜犬は多額の負債を抱えて倒産、社長は逮捕された。 社長の野口敏は、子ども時代を過ごした朝鮮で事故に遭い、足に怪我をした。以後、足を引きずりながら歩くようになり、戻ってきた日本で通った学校でいじめられる。犬だけが友だちの孤独な少年時代を過ごし、犬を頼りに戦後を生きてきた。 その野口が、犬を使った前代未聞の利殖商法を生み出し、多くの人々に損害を与えたのである。最盛期には1200人の社員を抱え、顧客数10万8000人、年商は70億円に達した。犬なしでは生きられなかった孤独な人間が、犬を巻き込んで破綻していったのだ。 しかし野口は一方で、時代を先取りする先見の明があった。東京畜犬はドッグフードを普及させ、盲導犬育成のためにラブラドール・レトリーバーを輸入し、野犬ゼロを目標に無料の避妊手術も始めた。利殖商法などに走らず地道に事業を進めていたら、違う展開になった可能性はある。 東京畜犬の避妊去勢活動は、会社の実態を知らなかった一部自治体の支持も得た。昭和45年(1970年)の大阪万博を控え、野犬に手を焼いていた大阪府の保健所は、手術車両の置き場を手配するなど、当初は全面的に協力していたのである。その車両は、主旨に賛同した日産自動車が提供したものだった。 ドッグフードの普及も功績の一つだ。ドッグフードは昭和の戦争後、アメリカから入ってきたとされているが、実際には昭和13年(1938年)に日本で発売されている。 しかし、ドッグフードは戦後になってもなかなか普及しなかった。多くの飼い主は、犬は残飯を食べさせておけばいといいと思っていたのだ。東京畜犬の大々的なキャンペーンが、ドッグフードの認知度を高めたのである。 また野口は東京畜犬を設立する以前から、イギリスから訓練士を招いて盲導犬の育成に励んでいる。中部盲導犬協会と北海道盲導犬協会(旧称・札幌盲導犬協会)は、東京畜犬の訓練事業を引き継いだものである。 東京畜犬が盲導犬育成に励んだのは、ラブラドール・レトリーバーの輸入と深い関係があった。ラブラドール・レトリーバーを初めて輸入したのは、東京畜犬である。この最初の一頭を東京畜犬から購入したという貴重な体験談が、ネット上にかろうじて残っている。ブログ主は事件の全貌を詳細に記述した『黄金の犬たち』の発刊を知って、子ども時代の体験を思い出したという。 それによると、ブログ主の家は犬好きでいつも犬を飼っていた。そして犬が亡くなったタイミングで東京畜犬を紹介され、珍しい犬がいると聞いて購入することにしたそうだ。 その時に利殖の話も出たが、慎重な性格だった父親は「そんなうまい話があるはずない」と断り、購入だけにとどめた。その珍しい犬というのが、日本に初上陸したラブラドール・レトリーバーだったのである。 「将来的に目の不自由な人のために活躍するとして期待され、東京畜犬が盲導犬事業をするために購入した犬種で、社会的に注目されていたのか、日本上陸第1号はテレビに取り上げられました」(記事より) 当日は東京畜犬の社員が家に来て、家族全員でテレビ中継を見ていた。はるかイギリスから羽田空港に到着した犬は成犬で、一頭だけだった。ケージに入ったラブラドール・レトリーバーがテレビ画面に映し出され、担当者が「この子がウチに来る子です」と言ったのである。 その数時間後、本当にその犬が家にやってきて子どもだったブログ主は驚いた。その数年後に東京畜犬は突然倒産し、担当者とも連絡が取れなくなり、両親は怒っていたそうだ。 一方、東京畜犬が倒産する前の昭和43年(1968年)から、イギリスの大衆紙『ザ・ピープル』が「日本は犬の地獄だ」という批判キャンペーンを始めていた。それは突然始まったものだった。その驚くべき背景の一端を筆者は、当時から動物愛護活動をしていた先駆者的ベテランから聞いた。 「東京畜犬の躍進は既存の業界を脅かした。このキャンペーンはイギリスからの直輸入を止めるため、既存業界が仕掛けたものだった」。それはやがて、イギリスとの外交関係にまで及ぶほど深刻になる。動物愛護協会はこの機を捉えて業界と共闘し、ついに悲願の動物愛護法制定に漕ぎ着けたのだった。 日本における動物愛護法制定は、犬を使った究極の利殖商法が残した、思わぬ副産物だったのである。だが今や昭和も遠くなり、犬をめぐって人々の欲と思惑が渦巻いた東京畜犬事件も、歴史の彼方に消えつつある。だからこそ、犬業界と愛護活動関係者が歩んできた一筋縄ではいかない複雑な軌跡を知ることに、意味があると思う。
川西玲子