住民を巻き込んだ沖縄戦はなぜ起きた 首里城の地下にあった日本軍の第32軍司令部壕
沖縄戦から79年
沖縄戦から79年の今年は沖縄戦への準備が進められて80年の節目だ。 80年前の1944年3月、旧日本軍は南西諸島に第32軍を配備し、沖縄で多数の飛行場建設を進めた。7月には日本が占領していた南太平洋のサイパン島が陥落したことで戦況が悪化。大本営は沖縄での地上戦は避けられないとして、第32軍を増強した。日本本土での決戦まで時間を稼ぐための「防波堤」としたのだ。 【動画】沖縄戦を指揮した首里城地下の旧日本軍「32軍壕」を撮影
沖縄の住民は大人から子どもまで飛行場造りに駆り出された。日本軍は学校や施設を取り上げ、民家などに兵隊が宿泊し、県民の日常は戦争一色に塗り替えられていった。 8月、疎開船の対馬丸が米軍の潜水艦の魚雷攻撃を受けて沈没。10月には「10・10空襲」で県内各地に壊滅的な被害が出た。この空襲を受けて第32軍は住民を動員し、首里城の地下数十メートルの場所に司令部壕を築いて開戦を迎えた。 住民を巻き込んだ悲惨な持久戦を展開し、20万人を超える死亡者が出た沖縄戦。その作戦が立案され、命令が出された「第32軍司令部壕」。現在、崩れる危険があり非公開だが、戦争を語り継ぐ「負の遺産」として、市民から保存と公開を求める声が高まっている。県は2025年度に一部の公開を目指して調査を進めている。
軍の拠点 模型で伝える
地下の戦争遺産に光を当てたい-。「第32軍司令部壕の保存・公開を求める会」(瀬名波榮喜〈せなはえいき〉会長)は2020年に活動を始めた。司令部壕が沖縄戦の真実を知り、平和を発信する拠点になることを希望。県に保存や公開を要請したり、模型やパネル展を開いたりして壕の存在や意義を広めている。副会長の垣花豊順(かきのはなほうじゅん)さん(90)は「再建される首里城と一体となり、『命どぅ宝』を世界に広げよう」と訴えている。 アリの巣のように地下15~35メートルに張り巡らされた五つの坑道は南北400メートル、総延長は約1キロ。「司令部壕というから立派なものと思いきや、湿気に満ちて、足元は水浸し。換気も悪い粗末な壕だった」。「求める会」の理事で、建築設計士の福村俊治さん(71)はそう説明する。 福村さんは2020年6月、垣花さんに要望され、司令部壕の模型作りを始めた。全体模型や、司令官室など主な部屋の模型、首里城との位置関係や断面が分かる模型など、複数の縮尺で、それぞれ2~3カ月かけて制作。兵隊の模型も配置して、リアルさを演出した。参考にしたのは1945年5月末に第32軍が南部に撤退した後、米軍が壕を調べた資料だった。