住民を巻き込んだ沖縄戦はなぜ起きた 首里城の地下にあった日本軍の第32軍司令部壕
米軍資料には天井の高さや幅、断面図や写真も細かく記録されていた。坑道の片側が通路で、片側がベッド。壕には日本兵約千人がいたとされる。福村さんは「司令官室といっても、廊下と変わらない」。 1945年4月中旬からの米軍の激しい攻撃で、首里城周辺は徹底的に破壊され、日本軍は兵士や武器の大半を失った。「負けも同然だったのに司令部壕にいたのは結局、米軍を沖縄にとどめておくため。本土侵攻を遅らせるために沖縄を『捨て石』にした」 「わが将兵には進死あるのみ(戦い、進んで命をささげよ)」。沖縄戦時、部下にそう訓示した第32軍の牛島満司令官はこの司令部壕で南部への撤退を決断し、できるだけ時間を引き延ばして戦う持久戦を始めた。多くの住民が戦闘に巻き込まれ、命を失った。 福村さんは「重要なのはこの壕で沖縄戦の作戦を練り、命令が出たこと。司令部の実体を明らかにしなければならない」。模型で具体的にイメージさせることで、多くの人の関心が高まることを期待している。 さらに「『昔ここにありました』では将来の世代に伝わらない。司令部壕を広島の原爆ドームやポーランドのアウシュビッツ収容所のような、形が見える戦争遺産として残すことが大事」と力を込めた。
自衛隊の強化に危機感
近年、沖縄を含む南西諸島で自衛隊が強化されている流れを受け、「第32軍司令部壕の保存・公開を求める会」は2023年6月、「沖縄を再び戦場にすることに断固反対する」という意見を発表した。「防衛」や「抑止力」を理由にした沖縄へのミサイル配備や火薬庫の建設などを心配し、「国家間の対立は積極的な外交によって解決すべきだ」と呼びかけた。 「求める会」の福村俊治さんは「もし第32軍が沖縄に来なかったら」ということを考える。果たして何万人の命が救われていたのだろうか。「沖縄戦では『国を守ること』と『住民を守ること』は違っていた。今の自衛隊の動きが重なってしまう」と話す。 沖縄戦当時、宮古島で空襲に遭ったという垣花豊順さんは「歴史からすれば戦争はいつも『平和を守るため』という理由で始まる。沖縄や平和を守るためというのは表向きの理由で、軍備の増強は戦争の準備だということを考えてほしい」と警鐘を鳴らした。(社会部・又吉嘉例)
西原と糸満で壕の模型公開
福村俊治さんが制作した第32軍司令部壕の模型は6月3~28日に西原町中央公民館、7月10日~8月10日に県平和祈念資料館(糸満市)の企画展示室で公開予定。