「1990年巨人との日本シリーズは、まったく負ける気がしなかったです」元中日-西武-千葉ロッテの名外野手・平野謙さん/著書『雨のち晴れがちょうどいい。』
目の色が変わった
現役時代、中日ドラゴンズ、西武ライオンズ、千葉ロッテマリーンズで活躍した外野守備の名手・平野謙さんの著書『雨のち晴れがちょうどいい。』が発売された。 【選手データ】平野謙 プロフィール・通算成績 両親を早くに亡くし、姉と2人で金物店を営んでいた時代は、エッセイストの姉・内藤洋子さんが書籍にし、NHKのテレビドラマにもなっている。 波乱万丈の現役生活を経て、引退後の指導歴は、NPBの千葉ロッテ、北海道日本ハム、中日をはじめ、社会人野球・住友金属鹿島、韓国・起亜タイガース、独立リーグ・群馬ダイヤモンドペガサスと多彩。 そして2023年1月からは静岡県島田市のクラブチーム、山岸ロジスターズの監督になった。 これは書籍の内容をチョイ出ししていく企画。今回は西武時代1990年の話です。 ■ 西武3年目の1990年は、前年優勝できなかったことで、みんなの顔色が変わっていました。「個人成績は関係ない、絶対優勝する」という思いが、いつもの年以上に強かったと思います。 結果から言えば、独走で優勝です。僕自身は打率.267ですから、あまり打っていませんが、50犠打はしているし、二番打者としての役割は果たしていたと思います。 セ・リーグも巨人が独走で優勝。当時、投手陣に斎藤雅樹、桑田真澄、槙原寛己がいて、前年は近鉄に勝って日本一です。日本シリーズの下馬評は圧倒的に巨人有利でした。向こうも楽勝くらいのつもりだったと思いますが、僕たちは「勝てる」と思っていました。 実際、日本シリーズをやっていて怖いはまったくありませんでした。過信やおごりではなく、そのくらい自信があった年です。唯一、バタバタしたのは、第1戦の先発を聞いたときくらいです。みんな斎藤かと思っていたのが、槙原で、少しだけ焦りました。 あの試合、僕は初回初打席から送りバントです。一番の辻発彦が2ベースを打ったあと、投手前に転がしたと思います。槙原の真っすぐは速いので、コースを狙うより、まずは球の勢いを殺そうと思った記憶があります。そのあとデストラーデが初打席でホームランを打って、早々に「ああ、これで、いけるんじゃないか」という雰囲気になりました。 ペナントレースでも初回からバントはよくありました。というか、先頭打者が出たらサインを見る必要がないくらい必ずバントでした。 僕は西武時代、1年目の1988年から5年連続リーグ最多犠打です。「またバントかよ」と思ったことがあるし、逆に違うサインが出ると「打っていいの」と笑顔になりそうになったこともありますが、納得はしていました。
週刊ベースボール
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