これぞ大阪の「美」の極み! “使ってなんぼ”天満切子のきらめき
エネルギッシュで庶民的、おおらかな街というイメージが強い大阪やけど、繁華街「キタ」からほど近い場所で、繊細で美しいガラス工芸品が作られているのを、どのくらいの人が知ったはるんやろう。大阪のガラス発祥の地・天満(てんま)で作られている天満切子(てんまきりこ)に迫る。 【写真】『進撃のガチ中華』出版記念インタビュー「中華料理の神髄とは何か?」
万華鏡のような美しさ
「今から水入れますよ。見ててくださいね」。天満切子株式会社代表取締役・宇良孝次(うら・こうじ)氏が、水差しでゆっくりグラスに水を注ぎ入れ始めた。水面が上がってくるにつれ、底から美しい幾何学模様が次々と現れてくる。 ひぇ~!! めっちゃ綺麗~!! 色ガラスに刻まれたカットが複雑な反射を繰り返し、グラスが万華鏡のような輝きを放ち始めた。 何て綺麗なんやろうう。思わずため息と驚嘆が漏れる。グラスのデザインそのものは、どちらかと言えばシンプル・スッキリ。その姿も美しいけれど、液体を入れると特別な美しさを見せる。 いや、すごい。こんなに綺麗なグラスがあるなんて。 「見て綺麗の『観賞の美』、使うともっと綺麗の『用の美』、この2つの綺麗を兼ね備えたのが天満切子なんです」(宇良氏)
ガラスの街だった大阪・天満
天満切子の工房は、大阪市北区同心にある。大阪天満宮から北へ徒歩7~8分のこのあたりは江戸時代、大坂町奉行所の与力(よりき)や同心(どうしん)らが暮らしていたことが地名の由来となっている。 1933(昭和8)年、宇良宗三郎(うら・そうざぶろう)氏が天神橋筋4丁目で「宇良硝子加工所」を創業。1950(昭和25)年、現在の同心に工場を移転した。3代目で現社長の孝次氏は言う。 「このあたりはガラスの街やったんですよ」 大阪天満宮(天神橋2)の戎門(えびすもん)の脇に「大阪ガラス発祥之地」と書かれた碑が建っている。一体、ガラスとどんな関係があるんやろと思ってはいたけれど、江戸中期・宝暦年間(1751~64)、ガラス商人の播磨屋清兵衛がオランダ人から伝えられたガラスの製法を長崎で学び、天満宮の門前でガラスを作り始めたんやそう。 1875(明治8)年、伊東契信が現在の北区与力町にガラス工場を作り、7年後の1882(明治15)年、天満に大阪初の洋式ガラス工場である日本硝子会社を設立した。1906(明治39)年には、後の東洋ガラスの創業者となる島田孫市と三菱財閥・岩崎彌之助(やのすけ)の次男で後の旭硝子初代社長・岩崎俊彌(としや)が、大阪島田硝子製造合資会社を設立。現アサヒグループホールディングス株式会社の初代社長・山本爲三郎が、父が興した製壜業(せいびんぎょう)・山爲(やまため)硝子製造所の社長を務めるのは、1910(明治43)年頃のことだ。 大阪市の資料によると、1919(大正8)年には全国のガラス関連工場の約7割が大阪府内にあったという。アジアなどにもガラス製品は輸出されていて、ガラスと言えば大阪、という時代があったんやね。 なぜ大阪で、これほどガラスの製造が盛んになったんやろう。まず、江戸時代から続くガラス製造の歴史があったこと、ガラスの原料であるケイ砂や燃料となる石炭を運ぶための水運が発達していたこと、そして1871(明治4)年に天満・大川沿いに造幣局が誕生したことが挙げられる。 造幣局は貨幣を製造するために硫酸、石炭ガス、コークスの製造から電信・電話などの設備や天秤・時計などの機械の製作まで、全て局内で行っていた。当時、最新鋭の西洋式総合工場であった造幣局は、ガラスの原材料となるソーダ灰(炭酸ナトリウム)も製造。余剰生産分を民間に安く供給したことで、周辺にガラス会社が数多く誕生した。 大阪・天満界隈では、灯火器や瓶類の他、食器など様々なガラス製品が作られていた。薬のアンプル瓶や、理化学に使われるフラスコやビーカーなどを作る工場も沢山あった。天満1丁目に本社を置く象印マホービンは、中がガラス製のマホービンを開発したことで知られている。 こうして大小様々なガラスメーカーがしのぎを削り、ガラス製品を作っていたが、次第にプラスチック製品などに取って代わられ、また海外の安い製品に押されて国産ガラスの需要が減少。昭和30年代に入ると、高温の炉を扱うガラス工場は消防法などの問題で郊外への移転が進み、天満界隈にあったガラス工場や工房は、ほとんど姿を消してしまった。