「偏差値71の進学校」から「即メジャーリーグ挑戦」へ…!令和の秀才球児・森井翔太郎はなぜ前人未踏の地を進むのか
メジャーへの憧れ
森井は'06年12月15日、東京・府中市に生まれた。父・志郎さんは関学大でアメフトをプレーした経験のある会社員。母・純子さんはヨガのインストラクターを務めていた。受験を経て桐朋小に入学。そこから小中高と12年間、桐朋学園で学んだ。 野球を始めたのは小1。心を奪われたのは、父が普段からテレビで観ていたMLB中継で躍動する大リーガーの姿だ。 「日本のプロ野球より、メジャーリーグを見る機会が多かったんです。プレーの華やかさとか、選手の体の大きさ、身体能力に憧れました」 いつか僕もメジャーリーガーに……MLB中継を通じて森井の中で自然と大志が育まれ、野球への熱も高まっていく。 桐朋中では1年秋から軟式野球部でプレー。中高一貫校の場合、中3は夏以降、高校の練習に合流できる。桐朋の硬式野球部を率いる田中隆文監督は、一目見た時から大器だと実感した。 「『大きいな、雰囲気あるな』というのが第一印象です。指導する上で心がけたのは、無駄なことを教えないこと。ゆっくりと見守っていこうと」
常識にとらわれない
高1夏の西東京大会から「7番・三塁」のレギュラーで出場。高2に進級する頃には、「上のレベルに挑戦したい」と田中監督に伝えた。 選択肢は3つ。直接のメジャー挑戦、米大学進学、NPB入りだ。監督生活28年目の指揮官にとって、プロ注目選手の指導は初めて。しかも森井は米国でのプレーを最終目標に掲げていた。 いわゆる野球強豪校の監督ならば前例に則り、国内の大学進学を勧めていたかもしれない。しかし田中監督は違った。 「桐朋では生徒の未来は、生徒自身が責任を持って決めるんです。(メジャーへの夢は)いいんじゃないかと思いました」 田中監督の指導のもと、2年秋にはショー転向。投打に実力を増していった。年が明け、'24年。「桐朋にスケールの大きな選手がいる」との噂を聞きつけた米大学やNPB、MLBの関係者が視察に訪れるようになった。SNSで動画が出回る令和の世。ドラフト戦線で昔のような「隠し球」は存在しない。才能を持つ選手の情報は瞬く間に、海の向こうに伝わる。 私が森井の名を耳にしたのも、その頃だ。不明を恥じれば、「桐朋に逸材アリ」との一報に接し、「まずは東京六大学の名門校に進学するのでは」と思った。桐朋には過去、一般受験を経て、東大野球部で活躍した選手が何人もいるからだ。同校の進学率は100%に近い。大学を経てから「上のレベル」を目指しても、遅くはない。 そんな私の「常識」は目前に現れた現実を前に、吹っ飛んでしまった。 7月7日、府中市民球場で行われた夏の高校野球西東京大会。桐朋は初戦で'22年夏の西東京4強、都立の難敵・富士森と激突した。炎天下、私は客席の階段を何度も上り下りして、視察したスカウトを確認した。ドジャース、カージナルス、アスレチックスを含め日米14球団42人もの目利きが、森井の一挙手一投足に注目していた。 スカウトにとって7月は、高校生候補の実力を見極める多忙な時期だ。そんな中で42人が集結するのは、各球団とも本気で森井の力量を見定めている証拠だった。 残念ながら桐朋は7回コールドで初戦敗退。森井は2番手でリリーフして力投したが、4回2/3を1失点、打っても3打数無安打に終わった。それでも、スカウト陣からは高い評価の声があがった。 後編記事『偏差値71の進学校でも「大学へは進学せず」令和の秀才球児・森井翔太郎が渡米挑戦前に語った言葉』へ続く。 「週刊現代」2024年12月21日号より
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