【ラグビーコラム】仲間たちから語り継がれる。(向 風見也)
どこを探しても喪服がなかった。きっと母や祖父母らの住んでいた富山の家に仕舞われていよう。数年前に持って行き、用が済んだらそのまま置いていった気がする。 それだけ長いこと周りに不幸がなかったのは喜ばしいのだろうけれど、2日後には突然の参列を要していた。黒の上下はおろか、ネクタイや靴すらなかったのには困った。 翌日には、自宅から片道で約2時間かけて埼玉の熊谷ラグビー場へ出かける予定だった。パシフィックネーションズカップの日本代表対アメリカ代表戦の前日練習があったからだ。移動距離を鑑みたら、紳士服店で物色、新調する時間は取れそうにない。 改めて、便利な世の中になったと感じる。困り顔でスマートフォンのキーパットへ「喪服 レンタル」と打ったら、ちょうどよいサービスを見つけた。画面上で申請し、24時間稼働の無人スペースで一式を借りられる「喪服レスキュー」。熊谷での業務がある9月6日の夜、都内の受け取り場所へ立ち寄ることにした。 本来はこの日は宿泊し、翌日の試合に備えるつもりだったが、宿の初日分をキャンセルした。付属品の真っ黒な袋にスーツなどを詰め、一時帰宅した。 翌7日の午前中、ラグビージャーナリストの小林深緑郎さんの葬儀へ向かった。 インターネットはおろか携帯電話さえも普及していない頃から世界のラグビーの情報を集め、伝えていた深緑郎さんが75歳で亡くなったのは、1日のことだった。SNSでの投稿や、ジャストラグビー編集長の田村一博さんからのLINEで知った。 寡黙な深緑郎さんにまつわる思い出を、振り返ってみる。するとどうだ。深緑郎さんが話した言葉より、周りの人が深緑郎さんについて話した言葉のほうがくっきりと浮かび挙がってくる。 田村さんは前職のラグビーマガジン編集長時代、しきりに「初期のトライラインは絶対に読んだ方がいい」と訴えていた。同誌史上最長の406回目まで続いた連載コラムを引き合いに、手にしづらいニュースを集めて取捨選択する情熱、ないしは知性に触れるべきだと伝えてくれていたのだ。 普段は自由に生きろと強調し、人の言うことを聞かない筆者を咎めることは滅多になかった田村さんだが、深緑郎さんをはじめとした偉大なる先達の仕事ぶりには敬意を払うべきだと訴えていた。 深緑郎さんご自身とは、大人数の会合で顔を合わせることが何度かあった。本当に若い時分は、少人数の集まりにお誘いいただき御馳走になったこともある。 そうした場面で聞いた台詞を回顧しようとしたら、なぜか、10年ほど前に三軒茶屋であった若者の結婚を祝う会での呟きが浮かび上がった。「こんな楽しい世界、俺だけで十分」。独身生活をエンジョイする意思表明だった。他にもたくさんのことを学んだ、もしくは学べたはずなのに。 しびれる出来事ならあった。2011年夏のことだ。 ワールドカップニュージーランド大会を数か月後に控えていた折、どういうわけか、ちょうど出したばかりだった初の著書の出版記念パーティーを開いてもらうことになった。ラグビー界とは無関係な知人が主催した小ぢんまりとした私的な集まりへ、何と、深緑郎さんがいらっしゃったのだ。 約2時間での散会の後、会場入口でゲストを見送っていると、深緑郎さんが店から出てくるや筆者の肩に手を置いてきた。 その場から数メートル離れた場所に移動したかと思えば、ちょうど筆者が着ていた白いワイシャツの胸ポケットに1枚の万札をねじ込むではないか。 「…いやいや! 深緑郎さん!」 突然の計らいに戸惑うのに対し、深緑郎さんはこちらの目を見ずに小声で「いいから。いいから」と仰っていた。 お祝いのつもりで渡してくれたのだろう。何より、色々なことを想像していただいたのだとも思う。当時29歳の筆者はまだ、この仕事だけで生計を立てるには至っていなかった。ニュージーランドへの自費出張を直前に控える中、1万円はかなりの大金だった。 本当の凄い人物は、その凄さを自身よりも周りによって語り継がれる。そう再認識させてくれたのが、小林深緑郎さんという先輩だった。 「いいから。いいから」の夜から約13年が経った。 予約された斎場の部屋には、入室しきれないほどの弔問客が訪れていた。自由葬と謳われていただけに、普通のジャケットやチノパン姿の知人もいた。果たして、あのなかに「喪服レスキュー」の利用客は何名いたのだろうか。 司会者の静かなナレーションでセレモニーが始まると、たまたま最寄り駅から現地まで一緒だった田村さんが立ち上がった。挨拶を託されていたからだ。 話の途中、「…ちょっと、待ってくださいね」と声を詰まらせた。田村さんがこのような感情をあらわにするのは、初めて見た気がする。 途切れ途切れに発した言葉には、こんな内容があった。 「僕にとってのいい人の基準は、僕の友人と仲良くやっているかどうか。その点、小林さんは完璧でした」 そう言えば、その前日あたりに田村さんからLINEで写真が送られてきていた。 大阪の花園ラグビー場での全国高校ラグビー大会を取材していた、ある年の冬の1枚。田村さんと、在阪の田村さんのお仲間計3名と、筆者と、深緑郎さんが並んでいた。 【筆者プロフィール】 向 風見也(むかい ふみや) 1982年、富山県生まれ。成城大学文芸学部芸術学科卒。2006年よりスポーツライターとなり、主にラグビーに関するリポートやコラムを「ラグビーマガジン」「スポルティーバ」「スポーツナビ」「ラグビーリパブリック」などに寄稿。ラグビー技術本の構成やトークイベントの企画・司会もおこなう。著書に『ジャパンのために 日本ラグビー9人の肖像』(論創社)。『ラグビー・エクスプレス イングランド経由日本行き』(共著/双葉社)。『サンウルブズの挑戦』(双葉社)。