「イランの地下世界」を20年歩いて見えた…!日本人が知らない、信仰心のない「イスラム・ヤクザ」の正体
厳格な社会に暮らすナンパなイラン人
――それは、驚きですね。逆に日本人は、「イラン」という国のこととなると、人々はイスラムの厳密な教えを守らざるを得ない状況に置かれている――、そんな姿を思い浮かべがちです。 ところが、本書を読むとそれは誤解であり、普通にアルコールをたしなんだり、ナンパをしたりと、圧政の中でも人々は巧みにイキイキと生きています。結局、イラン人にとって「イスラム」とはなんなのでしょうか。 イスラムは、イラン人にとって外来の宗教なんですね。アラブ人にとってのイスラムとは、その点で大きく異なります。 イスラムがイランに入ってきたのは7世紀半ばです。イスラムはその後、政治権力と深く結びつきました。とりわけ近代以降、紆余曲折をへたものの基本的には現在のイラン・イスラム共和国もその延長線上にあると私は考えています。そういう意味ではイランにおけるイスラムは日本で言う仏教のようなものだと言えるかもしれません。 日本における仏教も外来の宗教です。奈良時代の鎮護国家思想のように、仏教と公権力が結びついた時代がありました。道鏡のように権力を手にする僧もいましたが、僧侶がみんな権力的だったわけではありません。 一休宗純のように頓智の効いた親しみやすいお坊さんもいた。俳句を詠んだ種田山頭火や小説家の瀬戸内寂聴など文化人もいます。戒律を重んじない破戒僧も入れば、いろいろです。 イスラムでも同じです。イランのイスラム法学者の全員が全員、権力志向、教条主義的というわけではないんです。中にはインスタグラムを使ってカフェで若い女性たちと親しげに話している姿を映した動画を投稿したりする人もいる。 私が常々思うのは、日本人はイスラムをエキゾチックなものとしてとらえすぎだということです。同じイスラム、同じ法学者といっても本来は千差万別なわけです。 しかし、そうしたイスラムの多面性が、抑圧的なイスラム体制の登場によってイランでは失われつつあることも事実です。イスラムと政治が一体化したことで、イスラム自体が硬直化してしまった。 その行き着く先が人々の「イスラム疲れ」、あるいは反イスラム主義であることは本書でも述べたとおりです。 後編「イランの地下世界で「隠れキリシタン」が増える意外な真相…! いま若者たちが「イスラムをやめるワケ」」では、若者たちのイスラム離れとそれによって引き起こされるこれからのイラン社会について、さらに詳しく若宮さんに話を聞いていこう。
若宮 總(ルポ・ライター)/小林 空(週刊現代 記者)