「イランの地下世界」を20年歩いて見えた…!日本人が知らない、信仰心のない「イスラム・ヤクザ」の正体
奥深きイラン社会
それから、伝統と近代の対立もイランではいまだに深刻です。 近代を独立した個人の時代と考えるならば、親の権威や子の自主性という問題もそこに含まれます。イランの若者たちの多くは、進学、一人暮らし、あるいは結婚といった人生の転機において親の意向に逆らうことができません。それに従うのも、逆らうのも、非常に大きなストレスをともないますから、イランの若者たちはほぼ例外なくフラストレーションに押しつぶされそうな毎日を送っています。 貧富の差も激しい。例えばテヘランには日本の「山の手」のようなおしゃれなエリアがあります。きれいなショッピングモールがあり高級ビルが立ち並ぶ。走る車はすべてが外車、日本で言えば港区のような場所をイメージしてもらうと良いかもしれません。 逆に「貧民窟」のような場所もある。そこでは、ゴミ箱をあさり、金属類などを集めてお金に換える麻薬中毒者なども目にします。落差が日本よりも大きいわけです。 もう少し目を広げれば、都市と農村、スンナ派とシーア派、主要民族と少数民族、そして抑圧的な権力と反抗的な民衆の対立。こういった対立がいたるところで起こっていて「デモ」などの形で可視化されているのです。 こうした対立軸は、かつての日本でも可視化されていたと思うんですよ。たとえば、1960年の安保闘争とかその後の学生運動とか、待遇改善を求める労働運動とか、その背後にある自由主義と共産主義のイデオロギー対立とか……。そういうものが、日本では可視化されなくなり、静かで従順な大衆の集まりになった。 けれども、イランではそれらが現在でもデモや暴動といったかたちで表面化する。 そこにイラン社会の面白さがあり、奥深さがある。
信仰心のないイスラム・ヤクザ
――衝撃的だったのが本書の中で「イスラム・ヤクザ」と表現されるチャドル(イランの女性たちが伝統的に身に着けてきた体全体を覆う布)を身にまとう女性たちの存在です。 「女性は肌を見せてはいけない」という教えを守るためチャドルを身にまとっているかと思いきや、実は敬虔なイスラム教徒というわけではなく、チャドルが出世やある種の「脅しの道具」になるから着ているだけ。実際に「イスラム・ヤクザ」の一人の女性との対話も本書では登場します。 彼女とは仕事を通じて知り合いました。 彼女が私と懇意にしたのも実は、裏腹な事情があるでしょう。私は外国人であり、日本人です。イランでは依然として「日本は先進国であり日本人はカネを持っている」と思っている人がけっこういる。日本人との関係性をキープしておく方が得策だと、そう思われたのでしょうね。 こうした損得勘定を持っている彼女は、政府の「イスラム宣伝局」の職員です。彼女が政府が強制しているチャドルを被るのは、信仰のためではなく出世のためなのです。実際、自宅では私がいてもお構いなしにチャドルはおろか、スカーフすらもつけていませんでした。 ただし、イラン人は本当に親日家が多いのも事実です。 地理的に遠く離れている先進国の日本は、利害関係が薄いということもありますが、古くは日露戦争での勝利や、敗戦後の焼け野原から驚異的な復興をとげたという尊敬の念があるのです。 また、黒澤明や小津安二郎の映画やドラマ「おしん」の影響もありますし、最近では、宮崎駿作品や新海誠作品をはじめアニメが若者たちの心を捉えている。 イランでは「日本人はこうしているが、われわれはどうか」という話法があるほど、日本はイラン人の模範的存在なのです。