蕎麦職人たちを魅了する鮮やかな色と濃厚な風味|「みよしそばの里」東京近郊で三人四脚の蕎麦栽培
昨今、手打ち蕎麦屋で人気を博しているのは産地別に打ち分けた蕎麦。この連載で紹介した「ら すとらあだ」や「一東菴」は好例といえるだろう。その産地のなかでも人気店がこぞって使うのが埼玉県の南に位置する三芳町産だ。東京に最も近い名産地で生産の現場を覗かせてもらった。 【写真を見る】蕎麦職人たちを魅了する鮮やかな色と濃厚な風味|「みよしそばの里」東京近郊で三人四脚の蕎麦栽培
■蕎麦職人たちを魅了する鮮やかな色と濃厚な風味 蕎麦の産地というと思い浮かぶのは、北海道、山形、長野、茨城あたり。緑深い山間の里で旨い蕎麦はつくられているーーと思い込んでいたから驚いたのは東京からの近さだ。都心から車で1時間足らず。所沢、新座、朝霞、志木といったベッドタウンにぐるりと囲まれた小さな町、それが蕎麦の名産地、埼玉県三芳町だ。 この地名を知るようになったのは、今から10年近く前。蕎麦屋巡りをするなかで、あちこちの店で三芳町産の蕎麦に出くわしたのだ。店それぞれに仕立て方は違うものの、一度食べたら忘れられないインパクトに目を見張った。 例えば、ある日、「一東菴」で出された蕎麦は美しい翡翠色に輝き、手繰る前から草に似た香りがぷんぷんと立ち上る。すすればその香りが勢いよく鼻腔を駆け抜け、噛むほどに広がるのは力強い旨味と鮮烈な甘味。目の覚める味とはこのことだろう。 「畑は町内に点在していて、全部合わせると28haぐらい。社員5名で作業にあたっています」 三芳町の畑を前に、こう教えてくれたのは「みよしそばの里」の二代目社長、船津正行さんだ。28haは東京ドーム約6個分。埼玉県下の蕎麦の作付面積から見ると、約10分の1を占める広さだ。 取材に訪れたのは昨年11月の初め。ちょうど蕎麦の収穫をしているとのことで、まずはその様子から拝見することにした。 三芳町での蕎麦の収穫は年2回。秋に収穫する秋蕎麦のほかに、初夏に収穫する夏蕎麦もある。 「“蕎麦七十五日”という言葉が伝わる通り、播種から収穫まではおよそ2ヶ月半。秋蕎麦の場合、種を播くのは8月下旬で、1ヶ月ほどで花が咲いて10月の終わり頃から収穫が始まります。11月下旬の今は収穫の終盤戦ですね」 話を聞きながら畑を見ると、1本1本の茎の先にいくつもの蕎麦の実がついている。色は白かったり黒かったりとまばら。船津さんによれば、その色で収穫時期を見極めているのだという。 「蕎麦の実は熟すほどに白、緑、茶と変化して、完熟すると黒くなるんです。全部が黒くなるのを待つと先に熟した実は畑に落ちてしまうし、逆に早過ぎると熟していない実が多くなってしまう。だから7割が黒くなったタイミングで刈り取りしています。ただ、圃場によってはあえて早めに刈って緑の色合いやフレッシュな風味を生かすことも。刈り入れ時期にはいつも頭を悩ませますね」 その刈り入れで活躍しているのがコンバインだ。先端に回転刃のついた機械が畑を走ると茎の先だけがきれいに刈り取られていく。タンクが一杯になったところでトラックに移せば、出てきたのは脱穀された蕎麦の実。これを作業場へ運び、粗選機と呼ばれる機械で茎や土などを取り除いたら乾燥機にかけ、さらにゴミ取りや石抜きをするのが収穫作業のおおまかな流れだ。 船津さんによれば、乾燥も味わいを左右する大事な作業だという。 「含まれる水分量によってつながりやすさだけでなく、甘味の出方も変わってしまうんです。ベストは15%前後ですね。現在は3台の大型乾燥機を使い、予乾燥、本乾燥、仕上げ乾燥と段階を踏んで調整しています」 仕上がった蕎麦の実は“玄蕎麦”と呼ばれ、これが蕎麦粉の原料になる。一般的にはその玄蕎麦を製粉会社に卸し、製粉会社から蕎麦屋に届けられるのだが、「みよしそばの里」では蕎麦屋への直接販売を主軸にしている。その販売方法には大きく3通りあるという。 1つめは、玄蕎麦のままでの販売。仕入れた蕎麦屋は店の機械で殻を剥いてから石臼で挽くほか、玄蕎麦の状態で挽けば黒味がかった田舎蕎麦になる。 2つめは、殻を抜いた“丸抜き”と呼ばれる状態にして売る方法。丸抜きなら店の電動石臼でそのまま挽くことができ、自家製粉の店ではこれを仕入れていることが多い。 3つめは製粉、つまり蕎麦粉にしてから販売する方法。丸抜きを粉にした蕎麦粉のほか、玄蕎麦を挽いた挽きぐるみも用意され、自店で打つ蕎麦に合わせて選択できる。 このほかに、製粉した粉で蕎麦を打ち、冷凍で小売もしている。つまり、製粉会社と蕎麦屋の要素を兼ね備えた生産者というわけだ。 こうした使い勝手のよさだけでなく、先述の通り、インパクトのある味わいにこそ三芳町産蕎麦の本領がある。濃厚な味と香りはどのようにして生まれているのだろうか。 船津さんに聞くと、理由の一つは土壌ではないかという。 そもそも三芳町とその周辺は江戸時代に柳沢吉保によって遂行された三富開発の地。耕地の隣に雑木林を残すように開墾が行われ、その林の落ち葉を畑の肥料にすることで肥沃な土壌がつくられたと伝えられている。 「この地域は水が乏しく稲作には適さないものの、その代わりどんな作物もよく育つんです。サツマイモの一大産地になったのもそのため。その土が蕎麦にも合ったのでしょう。味が濃く粘りも強い蕎麦になります」 一方、5名のスタッフによるきめ細かい管理も味に結びついている。象徴的なのが中耕と呼ばれる作業だ。発芽後、背丈が5cmほどに伸びたタイミングで、その両脇を浅く耕し土寄せをしていく。これにより雑草が取り除ける上、土の中に新鮮な空気を入れられるので根が丈夫に育つのだとか。 「中耕作業を行うようになったのは2012年。収穫量が増え、味もよくなりました。ただ、蕎麦の芽を傷めないようにしながら一筋一筋を耕すのは手間がかかる作業。毎期とも総力戦です」 そしてもう一つ、「みよしそばの里」の最大の武器といえるのが船津さんの探究心だろう。品種の選定や肥料の入れ方など、毎年、何かしら新しいことにチャレンジを続けている。 例えば、品種については自家採種でつなぐ種のほかに、新たな品種を積極的に導入。畑ごとに数品種をつくり分けている。 「最近、取り組んでいるのは牡丹そばです。北海道で古くから栽培されていた品種で味や香りの良さで知られていますが、背が高くなるので倒伏・脱粒しやすいのが難点。改良品種のキタワセソバが登場してから道内で栽培する農家が少なくなり、幻のそばとも言われています。僕が注目したのはその希少性。関東で育てる農家はほぼいないから面白いし、ニーズもあるかなと思ったんです」 こうした躍動的な取り組みの頼もしいパートナーが、三芳町産の蕎麦を使う蕎麦屋の店主たちだ。 「私のところは毎年つくる蕎麦が違うので、それがどのように評価されるのかを知りたい。例えば、肥料違いのものを渡すと、打ってみての感想やお客さんの反応をレポートしてくれるんです。そういう生の声は翌年の栽培に役立ち、自分たちが進むべき方向性が見えてきます」 つまり、生産者と蕎麦屋のキャッチボールが三芳町産の蕎麦を成長させてきたのである。その過程では自ら畑に立ち、農作業を手伝う店主たちも出現。中耕作業には延べ60人ほどの蕎麦職人が駆けつけるそうだ。 取材に行ったときには、東京・上落合「green glass」の関根美徳さんや埼玉・大宮「久霧」の久森賢一さんが収穫作業に汗を流していた。 「埼玉県内はもちろん、東京のお蕎麦屋さんにとってもこの場所なら気軽に来られる。蕎麦の原料がどのように育っているかを見ることができるわけです。そういう距離の近さもうちの強味とはいえますね」 船津さん曰く、「うちの蕎麦は三人四脚」。生産者、蕎麦屋、そして食べる人たちが一緒につくりあげてきたのが「みよしそばの里」なのだという。 その礎を築いたのは亡き父、貞夫さんだ。 次回は蕎麦栽培を始めた父の想いと、それを引き継いだ息子のストーリーを追っていこう。 文:上島寿子 写真:岡本寿
上島 寿子