野茂英雄のドジャース「トルネード旋風」を近鉄の同僚投手はどう見た?「自分は絶対通用せえへん」野茂に次ぐ“エース”がメジャーを目指さなかったワケ
赤堀が経験した2度の日米野球
1994年まで3年連続でパ・リーグのセーブ王となっていた赤堀は山崎と同様、後に続くという気持ちにはならなかったという。 最大の理由は、赤堀が選出された2度の日米野球にあった。 まず1992年、赤堀は野茂とともに日本チームのメンバーに選出されていた。その時の全米オールスターズは、そうそうたるスターたちが名を連ねていた。 1989年に阪神で1年間プレーしたセシル・フィルダー(デトロイト・タイガース)は帰国後の1990年から2年連続でア・リーグ本塁打王、3年連続で打点王。日米野球の8試合すべてに出場し、打率.440、2本塁打をマークした。イチローが「憧れの選手」として挙げたケン・グリフィー・ジュニア(シアトル・マリナーズ)は当時22歳。8試合出場で打率.353、二塁打5本。守備の名手で「オズの魔法使い」と呼ばれたオジー・スミス(セントルイス・カージナルス)も、全米チームの一員として来日していた。 野茂は3試合・8回を投げて自責点6。フィルダーにも一発を浴びるなど、メジャーのパワーの前に屈する形になった。それでも、ロジャー・クレメンス(ボストン・レッドソックス)が巨人単独チームを相手に5回1安打の快投を見せる姿を東京ドームのスタンドで観戦していた野茂は、本物のメジャーリーガーを目の当たりにして「すっかりひきこまれてしまった」と当時のインタビューで振り返っている。
向こうに行っても難しいのかな
日米野球での直接対決を通し、メジャーへの憧れがさらに強くなった野茂に対し、赤堀は逆に「向こうに行っても難しいのかな、って思ってしまった部分があったんです」という。 「ボールがどうのこうの、ってあったでしょ。僕、ボールを触った瞬間に、めっちゃ滑ったんです。僕、手が乾燥しちゃうんで、自分の思ったところに投げられないんじゃないか、というのが頭の中に入っちゃったんです。日米対抗のときに投げたボールは自分の感覚と違って『僕にはメジャーは無理、こっちで頑張ろう』と思ったんです。でも野茂さんは多分、その辺はあまり気にしてなかったんじゃないですかね」
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