山手線「駅名」ストーリー 目黒(JY22)と目白(JY14):江戸を護るお不動さんにちなむ不思議なつながり
将軍の鷹狩場だった目白のおとめ山
目黒・目白駅周辺の名所の話題に進めよう。 瀧泉寺(目黒不動尊)の境内に、偉人の墓所がある。「甘藷(かんしょ)先生」と呼ばれ、江戸時代にサツマイモの普及に貢献した青木昆陽(あおき・こんよう)の墓だ。飢饉の際の救荒食(きゅうきょうしょく)として江戸・上総・下総でサツマイモを試作した人物として知られている。 目黒に屋敷を持っていたことにちなみ死後、瀧泉寺に葬られた。10月12日の命日を偲び、同月28日には甘藷まつりが開かれる。 目黒駅から西に400メートルほど伸びる坂が、権之助坂。江戸時代の名主(村の長)・菅沼権之助(すがぬま・ごんのすけ)の名を冠した坂だ。坂を下り切ったところに橋があり、そのたもとに権之助の碑がある。 碑はこう刻んでいる。 「行人坂を通る下り道が急で、荷を運ぶ人々が苦労したため、(権之助によって)この坂道(権之助坂)がつくられた」 義人とも言える人物だが、実は、坂道は江戸に敵が侵攻してきた際の妨げとなるように造った防衛上必要な道路だったのだ。元禄(1688~1704年)の頃、幕府に無断で、傾斜の緩やかな道を造成してしまうのは大罪だった。権之助は処刑されたという。 だが、1924(大正13)年刊『目黒町誌』は異なる話を掲載している。権之助が処刑されたのは悪行によるもので、死罪の直前にひと目、自分の家を見たいと懇願したという。家があった場所が権之助坂だった。ちなみにどういった悪行を働いたかは記していないが、坂の造成が罪に問われたのだろうか…。 庶民から見れば義人、幕府から見たら悪人。谷川彰英は「人間は見方によって善人にも悪人にもなる。(中略)現在の感覚からすれば、偉人だったのではないか」と述べている。
一方の目白の名所は、面影橋があげられよう。現在、目白不動尊が鎮座する金乗院にほど近い、神田川に架かった橋だ。別名「姿見の橋」。歌人の在原業平が橋を渡った際、自分の姿が川面に映ったからという伝承による。 ただし、歌川広重画『名所江戸百景 高田姿見のはし俤(おもかげ)の橋砂利場』は、「姿見のはし」「俤の橋」を別々に描いており、二つの橋を混同した俗説という指摘もある(そもそも業平がここに来た証拠もない)。