米国人さえ嫌悪する「チップ」はなぜなくならない? まるで「最強の外来種」のようにタフ
そもそもは欧州貴族の習慣、“民主主義の胸にできたがん”とまで言われても生き延びる背景とは
ここ数年間で、米国のチップ事情は複雑になっている。タッチスクリーンが浸透したことで、コーヒー1杯からチョコレートバーまで、あらゆるものに18%、20%、22%といったチップを支払いやすくなったからだ。一方で、著名なレストランの店主たちが先頭に立って、チップを廃止しようとしているという報道もある。今、チップの習慣は大きな節目に差しかかっているようだ。 ギャラリー:リンチ殺人が横行した米国、暗黒の歴史(閲覧注意) ただし、米国のチップの歴史には、これまでにも大きな節目のようなものがたくさんあり、チップはそのすべてを生き延びてきた。米国にチップを持ちこんだのは、南北戦争後に、世界を旅行した米国人たちだ。そしてチップは、最強の外来種のごとく広まり、根絶を目指すあらゆる努力をはね返している。 チップという自発的に追加でお金を渡す奇妙な習慣は、レストラン業界を中心として米国に広く根づいている。なぜこれほどしぶとく残るのかについて、学者の間では今も論争が続いているが、チップは今後も長く続くだろうという見方がほとんどだ。
チップはどのようにして生まれたのか
チップの起源は、中世後期に英国貴族が使用人に渡した「ベール」と呼ばれる少額の金銭(心付け)だ。当初、これは追加の労働に対する謝礼や、苦しいときの援助が目的だった。 18世紀になると、地方の邸宅や宿屋の使用人などが、この心付けを日常的に求めるようになった。それに対する不満は、そのころから聞かれたという。 しかし、チップと社会についての著書がある文化史家のケリー・シーグレーブ氏によると、米国でチップの習慣が広まったのは南北戦争後のことだ。この時期、ヨーロッパに旅行に行く米国人が大幅に増えたうえ、「金ぴか時代」と呼ばれる活況を受けて裕福になった米国人たちが、貴族の慣習を米国に持ちこむようになった。 チップを使って賃金を低く抑えようとする雇用者もいた。特に知られているのが、鉄道の車両製造や運行を手がけていたプルマン・パレス・カー・カンパニーだ。この会社は、チップをもらっているからという理由で、ポーター(荷物運搬人)には生活費を下回る賃金しか支払わないことを公言していた。 米国でチップの習慣が広まったことには、人種差別が関連しているという議論もある。プルマンのポーターはすべて黒人で、低賃金の一因に人種差別があったことは間違いない。 人種差別は当時の米国社会で横行していたが、チップを渡すことが人種差別に当たると考えられていたかどうかは、定かではない。そのため、人種差別とチップとの関連性も不透明だ。この時期、チップを受け取っていた白人労働者も多いうえ、シーグレーブ氏によると、米国南部の白人が黒人労働者にチップを渡すことを拒否した事件もあった。