ミニマムアクセスで米国譲歩 松浦晃一郎元外務審議官
1993年7月の東京サミットなどに当時外務審議官(経済担当)として携わった松浦晃一郎元国連教育科学文化機関(ユネスコ)事務局長(87)に話を聞いた。 【写真】国連教育科学文化機関(ユネスコ)本部 ―当時の国際情勢は。 冷戦が終わって旧ソ連が解体し、南・東欧や東アジアにはしっかりした国際秩序がなかった。日本は湾岸戦争への対応で、残念ながら国際的な評価を下げていた。 ―東京サミットで苦労したことは。 ロシアのエリツィン大統領とインドネシアのスハルト大統領の招請だ。米国や西欧の関心はロシアにあったが、日本にとっては東南アジアの今後も重要だった。特にインドネシアは今で言うグローバルサウス(新興・途上国)の代表格。米国は当初東ティモール独立運動もあって渋っていたが、クリントン大統領は会談してくれた。新しい国際秩序のために大きな貢献があったサミットだった。 ―ウルグアイ・ラウンド(多角的貿易交渉)では日本のコメ市場が一部開放された。 コメは閉鎖的な日本市場の象徴だったので、米国としてはそれを打ち破るという意味があった。ただ、クリントン政権では工業製品の方がはるかに重要で、日米包括経済協議で日本市場を開放させて対日輸出を拡大することが最優先。米国はミニマムアクセス(最低輸入量)では相当譲歩した。 ―細川護熙首相はいつ決断したのか。 細川首相はコメの関税化とミニマムアクセスの受け入れは仕方がないという考えを持っておられたと推察する。日本がコメの問題でウルグアイ・ラウンドを失敗させることは絶対に避けたいということだった。