「僕はママじゃないよ。決めつけないで」大好きであるが故にやらかすファン、親、恋人のための心得【小島慶子】
時代の潮目を迎えた今、自分ごととして考えたい社会現象について小島慶子さんが取り上げます。 人を好きになるとは、どういうことでしょう。いわゆるときめきを伴う恋愛感情めいた「好き」は、果たして相手のことを思う感情なのでしょうか。あるいは誰かを守り幸せにしたいという「好き」は、本当に相手を幸せにするのでしょうか。私はこれらの感情をわりと警戒しています。身近な人を縛るだけではなく、知らない人をも傷つけることがあるからです。 たとえば、過干渉の親。我が子が可愛い、守りたいという思いが強すぎて、子供を苦しめてしまいます。自分と子供の境目がわからなくなってしまうのです。親が子供を他者として見ることができないということは、子供の側にしてみたら存在を見出してもらえないということです。ぎゅうっと抱きしめられながら、永遠に個として発見されない孤独を生きねばなりません。 しかも、苦しいと言えないのです。だって、「好き」は正義だから。親が子供を大好きで仕方がないが故にやらかすことは、愛という名のもとに正当化されます。尊い尊い愛という希少資源をふんだんに与えてもらっているのに、苦しいなんて言っちゃダメだよねという思いが、子供を黙らせます。
気をつけていても、良かれと思ってうっかりやってしまう。私は長男が小学校低学年くらいの頃、「ねえ、君は今きっとこう思っているでしょう、でも君のために言うけどそれはね」と小言を言ったら「ママ、僕はママじゃないよ。だからきっとこう思うなんて決めつけないで」と抗議されてハッとしました。うああやっちまった! 私も母のそんな決めつけに苛立ち疲弊した経験があったのに……と、えらく反省して、長男に平謝りしたのでした。同時に、憎んだこともあった母の過干渉はこのような心理から生じたものだったのかと、母のことが少し理解できた気もしました。彼女はモンスターではなかったのだと。
ありがた迷惑な愛、その厄介な暴力性
「好き」と「わかる」は違います。いくら相手を好きでも、その人の考えていることがわかるはずないですよね。わかると思うと、知らず知らずのうちに相手を所有しているつもりになってしまいます。これがとっても厄介。そして人は「好き」の見返りに、感謝を貪欲に求めます。むしろ感謝されたいから誰かを好きになるのかも。対等な関係なら、そんな鬱陶しい人とは離れることもできます。でも親子のように一方が他方に生活を依存していたら、離れることは難しい。あるいはアイドルやスポーツ選手など、応援されることを望んでいるはずとみなされる立場の人は、たとえありがた迷惑でもひたすらファンに感謝するほかありません。これも苦しいでしょう。 最近相次ぐいわゆるファンの暴走には、過干渉の親や束縛する恋人と通じるものを感じます。「好き」を正義と信じると、自らの暴力性に気づきにくいもの。ファンがアイドルや有名人に「がっかりしました」「裏切られました」などとSNSでコメントを送りつけたりするのは、はたで見ていると随分と一方的だなと思うけど、当人は当然の権利と思っているのかもしれません。応援するのをやめるぞと脅して、相手を思い通りにしようとする強者意識も窺えます。 こんなにもあなたが好きなのに、尊い感情を捧げているのに、自分自身よりもあなたのことを大切に思っているのに、なぜあなたは献身的な私を失望させるのか。あなたしか人生の意味を見出せるものがないのに、なぜ私を傷つけるのか。その怒りは身勝手な怒りです。怒りをぶつけることが愛情表現だと信じてしまう。誰にでも起き得ることです。私も息子たちが思春期でつっけんどんだった時には、よくこんな気持ちになったものでした。けどそんなこと言われても息子たちも困りますよね。彼らだって変化しまくる心身に振り回されていっぱいいっぱいなのに、なんで母親のおもてなしまでしなくちゃならんのでしょう。ほっといてやれよ。と、ときどき我に返って自戒していました。 好きな人が思い通りにならなかったり、好きな人の価値が損なわれるような事態が起きたりすると、当人に文句を言うだけにとどまらず、当人の家族や関係各所にまで嫌がらせをする人たちがいます。匿名で発信できるSNSでは、誹謗中傷で亡くなる方まで出ています。こんなひどいことを、何度繰り返すのか。ネット空間は人が生きる現実の生活空間となって久しいのだから、決して「言い逃げ」ができないようにするべきです。