焼夷弾が「シュー」防空壕に煙が充満「私たち死ぬとね」飛び出ると火の海…熊本大空襲振り返る93歳
熊本市北区の中野喜重子さん(93)は1945年7月1日、後に熊本大空襲と呼ばれる大規模爆撃に襲われた。自宅は焼失し、見慣れた景色は焼け野原と化した。「体験したからこそ戦争はいけないと強く思う。一番大事なのは平和だと頭に入れてほしい」と訴える。 【写真】「俺は残念 後を頼む」西鉄列車空襲で犠牲になった父の遺言
6人きょうだいの長女で、当時13歳。深夜、市中心部の自宅の一間できょうだい、いとこの計7人で寝ていると、空襲警報が鳴った。
庭に掘った防空壕に走った。両親と伯母を含む10人が広さ3畳ほどの壕に身を寄せた。米爆撃機「B29」が編隊を組んで飛来し、焼夷弾が「シュー」と音を立てて落ちてきた。壕内にも煙が充満した。
「お父さん、もう我慢できん。私たち死ぬとね」と訴えると、父不斗喜さん(1979年に84歳で死去)が「今から出ていくぞ」と皆に呼び掛け、1キロほど離れた練兵場に避難した。熱気と息苦しさでたまらず、途中で見つけた防火用水槽のボウフラが湧いた水を口にした。伯母と妹とはぐれたが、捜す余裕はなかった。
翌日、焼け残った建物跡を頼りに家に戻ると、門柱だけが残る自宅跡に伯母と妹がいた。妹はやけどで肩から肘にかけて水ぶくれになっていたが、一命は取り留めた。破壊・焼失は9000戸以上。約400人が犠牲となった。「恐怖を通り越し、ぼうぜんとするしかなかった」
玉音放送は伯母の家で聞いた。途切れ途切れの音の中に「忍び難きを忍び」と聞こえ、敗戦を悟った。こみ上げたのは、「爆撃に遭わずに生活できる」という安堵の思いだった。
カボチャの茎や、海藻で作った黒いうどんを食べる戦後の貧しい生活の中で、高校教諭だった夫の嘉明さんと24歳で結婚した。
10年ほど前、講演を依頼され、体験を語った。応援してくれた嘉明さんは2020年に92歳で亡くなった。「平和を望む人だったから、『平和のために話してほしい』という思いがあったんでしょうね」。中野さんは今年7月1日も、熊本市であった集会で「戦争の時代に戻してはいけない。私の話で少しでも平和に近づけば」と思いを伝えた。