殿堂入りの元中日・立浪和義氏が語った「スーパー新人根尾の可能性」と「監督待望論」
野球殿堂入りが15日、発表され、引退後5年以降、15年間の競技者を対象にしたプレーヤー表彰では、元中日の立浪和義氏(49)が選ばれた。PL学園で春夏連覇をしてドラフト1位で中日に入団し、故・星野仙一監督に開幕スタメンに抜擢された立浪氏の昔は同じく甲子園の春夏連覇を土産にドラフト1位で入団したスーパールーキー、根尾昂の姿に重なる。立浪氏は、根尾を「僕よりスケールが大きい。将来30本打てる」と絶賛したが、一方で過度の期待と重圧を「気の毒」と危惧した。また中日は今季から立浪氏と現役時代に共に戦った与田剛氏(53)が監督になり一気に世代交代が進んでいるが、立浪氏は「必ず(監督を)やりたい」と堂々と宣言した。
根尾への期待と注目度の高さは「気の毒」
ミスタードラゴンズ。立浪氏がノミネート5年目で晴れて殿堂入りを果たした。 PL学園時代の監督である中村順司氏が、ゲストスピーカーとして招かれ「本来なら星野仙一さんが語るのがふさわしいが」と断った上で、外野からの中継ボールがそれたことに不満顔を浮かべた立浪氏を叱ったエピソードや、夏の甲子園の帝京戦で「(打順の)奇数はカーブ、偶数はストレートを狙え」と指示、3番だった立浪氏がカーブを狙って先制本塁打を放ち、春夏連覇につなげた逸話などを紹介した。 「体は小さいが負けん気が強かった。この年代は桑田、清原の努力を見てきたし、チームワークがよく誇れる学年。みんなに信頼されてリードしたのが立浪だった」 1988年にドラフト1位で入団すると、4月8日の開幕の横浜大洋戦で、当時、まだ30代の青年監督だった星野仙一氏が、「2番・ショート」にスタメン抜擢した。その試合の初ヒットは、後に立浪氏の代名詞となるライト線への二塁打である。 「立浪をよく1年目に使いましたね?」 生前の星野氏に何度か質問をぶつけたことがある。 「え?という場所のボールに追いつく。打球は糸を引く。島ちゃん(当時の島野育夫ヘッドコーチ)が、『守備はプロですぐに使える、うーやん(宇野)より上手い』と言うんだ。タツはドラゴンズを背負っていく選手だと確信があった。でも就任2年目で絶対に優勝しなければならない年。しかも、ショートにはうーやん(宇野)がいた。中日の未来か、今年の勝負か」 悩んだ星野監督はショートのレギュラーだった宇野勝をキャンプ中にホテルの自室に呼ぶ。 「立浪をどう思う?」 「守備は僕より上です」 人のいい正直者の宇野は迷わずそう答えたという。 それが高卒ルーキー立浪の開幕スタメン抜擢の最終的な決め手になった。星野氏は宇野をセカンドにコンバートさせる。この年、立浪氏は、110試合に出場、夏場に.290あった打率は、最終的に.223となったが、星野氏は我慢起用を続け22盗塁、21犠打で新人王を獲得。高卒新人としては史上初めてゴールデングラブ賞を受賞し、“星野竜”初のリーグ優勝に貢献した。 だが、この日、立浪氏にプロでやれると感じた原点はどこか?と聞くと、その1年目ではなかった。 「1年目にいきなり使ってもらったのが、一番大きかったが、無我夢中で、なんとなしにわけのわからぬまま優勝を経験させてもらった。でも、プロとしての体力がなかったので(右肩を)怪我して2年目は出れなかった。この世界でやっていくためにはプロとしての体力をつけないといけない、と早く気づかせてもらった。本当の意味でプロでやっていけると自信になったのが3年目。ショートで3割を打つことができて自信になった」 2年目は右肩痛が原因で、わずか30試合出場に終わったが、3年目にV字回復。128試合に出場して、打率.303、11本塁打、45打点、18盗塁の数字を残した。 立浪氏は、当時の自分に重ねてスーパールーキー根尾について語り始めた。 「10年くらいできればいいかなという気持ちでプロに入った。3年目くらいまでに1軍定着できればいいかな、と。そういう目標でプロに入った。今回、甲子園での優勝だったり、同じポジションだったり(比較される)根尾が入った。彼と僕との違いは、彼はいきなりレギュラーとして、この段階から期待されていること。ちょっと気の毒。僕は、結果として開幕スタメンで出ることができたけれど、この段階では、1軍キャンプに行くかもわからないという感じだった。根尾は、あまりに注目度が高すぎて、見ていて気の毒だなあ、と。必ずドラゴンズの中心になってもらいたい選手だから大切に育ててもらいたい、と先輩として思う」