尾崎世界観が「こんなの誰が読むんだろう?」と思いながらも小説を書く理由【二度の芥川賞候補、作家兼ミュージシャン】
――そういう危機意識があったのですね。 小説を書く上でも、自分は新人賞を取ってデビューしたわけではないので、そこに対する引け目はずっと感じていて。「この人は芸能の世界の人だから、書く場を与えてもらっている」と思われているんじゃないかと。被害妄想かもしれないけれど、そういう気持ちはずっとあります。 でも、そうやって見られることで強くなる部分もあって。厳しい目を向けられながら、むしろその目を効果的に使いたいという気持ちもあります。 ニセモノはニセモノなりに何か新しいものを書くことができるかもしれない、むしろニセモノのにしか書けないものを書くべきなんじゃないか、という思いがありました。 ● 「書き直してほしい」と言われたとき 本当に嬉しかった 特に中身でちゃんと認めてもらいたいと思ったときに、ずっと好きでよく読んでいたので、文芸誌に載るようなものを書きたいという気持ちがあって、まずそこを目指しました。 以前、とある文芸誌に載せていただいた中編は、「ラストがこれじゃ載せられないから、もう少し書き直してほしい」と言われて、それがすごくうれしかったんですよね。 これは間違いなく中身を見てもらっているし、当たり前だけれど、バンドのボーカルだから載せてもらえるわけじゃないと。初めてミュージシャンとしての自分から離れて、一人の書き手として見られているという実感がありました。 ――編集者の指摘はすんなりと受け入れられましたか。 編集者の方からいただくアドバイス、意見に対する喜びは大きいです。何か言われるのが嫌だという書き手もいると思いますが、自分はずっとこの世界でお客さんのような感じだったので、提案や指摘があるとうれしくなります。
● 小説が書けないという 「できなさ」に助けられる ――物書きになってようやく両足で立てるようになったと、エッセイに書かれています。それまでの音楽だけでは片足で、不安定だったのでしょうか。 そうですね。音楽だけだと行き詰まった時に逃げ場がないけれど、文章を書くことで、「そっち側」に逃げられます。逆に書くことに行き詰まったら、今度は音楽のほうに逃げる。そういう感覚で、両方をうまく使い分けられたらと思っています。 世間から見れば、あっちをやったり、こっちをやったり、ブレているように見えるかもしれません。でも自分はそうやってフラフラすることでバランスを保っているというか、そんな風に都合よく二つを使い分けています。 特に小説は、できなくて当たり前という感覚でやっているので、その「できなさ」にいつも助けられています。 ――「できなさ」に助けられる。 そうです。音楽はできて当たり前だけれど、小説はいつ書けるかわからない。 10代の頃から20代後半まで、ずっと自分にとっての音楽は「できない」の象徴で、とにかく苦労しました。果たしてこれが曲になっているのかと悩みながら、いろいろな不安の中で、それでもどうにか頑張ってデビューできた。 それが今は、曲をつくろうと思えばほとんど滞りなくつくれるようになったし、なんとなく自分の創作の型みたいなものができてきて、自信もつきました。そうすると、いままであった「できない」がなくなってしまい、それはそれで不安になる。 何かができないということは、作り手にとってとても大事なことだと思います。そんな時に小説を書き始めて、圧倒的な「できない」に出会って、それに救われたという感覚があります。