「この世の中ってそんなもんや」と思わせてはいけない、教育者としての情熱と葛藤―宮崎 亮『僕の好きな先生』武田 砂鉄による書評
2021年4月、新型コロナウイルスの第4波で感染者が急増したタイミングで、大阪市の松井一郎市長(当時)が「小中学校は自宅オンライン学習を基本とする」と宣言、教育現場や家庭を混乱させた。その際、一方的な判断だと批判する提言書を松井市長らに郵送した大阪市内の公立小学校の校長先生がいた。 『僕の好きな先生』(宮崎亮著・朝日新聞出版・1760円)は、その教師・久保敬(たかし)と向き合った一冊だ。昨年3月、40年近い教員生活を終えて定年退職した久保には、教師1年目の時に接した「トシくん」への強い想いがあった。 知的障害のある彼を「支えよう」とクラスの目標を立て、下校時は誰かが送っていくことにした。送る人が限られてきたのを問題視した久保が憤ると、しばらくして、毎日、トシくんと下校している女の子が手を挙げ、私は楽しいから一緒に帰っている、「みんなはトシくんを、モノ扱いしてるように思います」と言った。久保の教育者としての葛藤は、この日の彼女の勇気と、自身の恥ずかしさから始まった。 久保の教え子にお笑い芸人「かまいたち」の濱家隆一がいる。久保が、1位を褒めるだけではなく、「『縄跳びが苦手で10回しかできなかったこの子が、15回跳べました』みたいなことを学級便りに書いてくれ」ていたことをいまだに覚えていた。その姿勢が、今、様々な現場で役立っているという。 先の提言書の一件で、市の教育委員会から文書訓告処分を受けた久保。処分は不当だと訴える会見で、子どもに「この世の中ってそんなもんや」と思わせてはいけない、と語った。一方、新聞記者の著者が、松井市長の会見でこの件を問うと、久保について「校長だけども、現場分かっていないというかね、社会人として外に出てきたことあるんかなと思う」と述べた。 現場を分かっていない人による指示に、分かっている人が声をあげた。彼の姿勢を知る声を丁寧に拾い集めた本書から、風通しのよい社会、その可能性が見えてくる。 [書き手] 武田 砂鉄 1982 年東京都生まれ。出版社勤務を経て、2014年秋よりフリーライターに。 著書に『紋切型社会』(朝日出版社、2015年、第25回 Bunkamuraドゥマゴ文学賞受賞)、『芸能人寛容論』(青弓社)、『コンプレックス文化論』(文藝春秋)、『日本の気配』などがある。 [書籍情報]『僕の好きな先生』 著者:宮崎 亮 / 出版社:朝日新聞出版 / 発売日:2023年09月20日 / ISBN:4022519355 毎日新聞 2023年11月18日掲載
武田 砂鉄
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