開業時意識、ときわ台駅舎リニューアル。こうして常盤台は高級住宅街になった
東京・池袋駅を起点に埼玉方面へと走る東武東上本線は、“本線”という名前がついていますが、東武鉄道の実質的な本線は浅草駅を起点にしている伊勢崎線です。東上線は東上鉄道として開業しましたが、すぐに破綻。その後、東武鉄道が経営を引き継ぎました。“東上本線”の名称は、東上鉄道時代の名残です。 東上線の経営が移管された後、東武は東上線の沿線に住宅地の造成を計画します。それが、ときわ台駅前から広がっている住宅地の常盤台です。当時、私鉄各社はこぞって住宅地の造成に取り組みました。自社沿線に住宅地をつくれば、鉄道の利用者増が見込めたからです。常盤台も、同じような経緯から東武が開発を進めました。 5月30日、住宅地・常盤台の玄関駅「ときわ台駅」がリニューアルを果たしました。生まれ変わった駅舎は、1935(昭和10)年の開業当時を意識したデザインと色使いになっています。このデザインと色は、住宅地・常盤台の街並みに調和するようにとの話し合いによって決められました。 東武が、常盤台の住宅開発を始めてから約80年。緑豊かな住宅地だった常盤台一帯は、時代とともに都市化し、街の緑は減少傾向にあります。街が都市化することは時代の趨勢でもありますが、常盤台をはじめ東京の各エリアでは良質な住環境や景観を維持しようという動きが出てきています。
住宅地、常盤台の設計は旧内務省が担当
明治末期から昭和初期にかけて、鉄道会社は住宅地の造成に力を入れていました。東急の田園調布、小田急の成城学園なども、この時期に誕生しています。これらの住宅地は、今や東京でも屈指の高級住宅街と知られます。“板橋の田園調布”とも呼ばれる東武の常盤台も、同じような経緯で同時期に開発された住宅地です。 常盤台の設計を担当したのは、旧内務省職員だった故・小宮賢一です。東武が開発を主導した常盤台ですが、設計は内務省が担当。当時、小宮は内務省の若手職員でした。そのため、常盤台は省内で大きな期待をかけられていなかったと言われます。それでも、内務省という国家機関が担当したわけですから、常盤台は国家の威信を賭けて計画・造成された住宅街という見方もできます。 常盤台一帯の地図を眺めると、駅北口のロータリーから放射状に道路が延び、街の中心部にはプロムナードと呼ばれる環状道路が配置されています。プロムナードは道路中央にプラタナスやイチョウが植えられた道路で、景観の向上や歩行者優先といった設計思想が込められています。 そのほか、常盤台の街にはクルドサックと呼ばれる袋路や、人しか通行できないようなフットパスと呼ばれる小径も整備されています。こうした設計思想が、常盤台を高級住宅街に押し上げました。