商工会議所の職員が切り開く新たな道。勇気を振り絞った可能性への挑戦の記録【日本サッカー・マイノリティリポート】
学術的な意義は本当にある?“論文の森”で途方に暮れる
商工会議所の経営指導員が、スポーツを地域振興の切り口とする独自の道を切り開くべく、大学院へ。仕事と学問の困難な両立の末に、見えてきた新たな可能性とは――。サッカー界やスポーツ界にとっても貴重なものとなる、勇気を振り絞った挑戦の記録を紹介したい。 【画像】サポーターが創り出す圧巻の光景で選手を後押し!Jリーグコレオグラフィー特集! ――◆――◆―― 2024年の元日、帰省中の松尾康宏は、高台から、夕焼けに染まる金沢市内を呆然と見下ろしていた。 「命を最優先に、今すぐに逃げてください!! 高台を目指して逃げること!!」 緊急ニュースのアナウンスにせき立てられるようにして、松尾は両親や兄の家族、自分の家族と実家を飛び出し、石柱がところどころ倒れているのを横目にしながら、少年時代にその境内でサッカーボールを蹴っていた神社の脇の坂道を上ってきたのだ。 修士論文の提出期限は迫っていたが、今は安全最優先だ。恐る恐る実家に戻ってからも、大きな余震で家屋が揺れ始めると、慌てて上着を着込み、リュックを背負って外に出た。歴史的な建造物が立ち並ぶ観光名所に程近い実家も格子窓の木造で、最初の強い揺れではミシミシと軋(きし)む音を立て、1階の居間でくつろいでいた松尾は液晶テレビが倒れぬように手で押さえながら、2階の床が抜け、上にいる妻や息子もろとも落ちてくるのではないかと天井を見上げたほどだった。 東京商工会議所に勤める松尾は1月4日、東京都内の自宅に戻ってくる。しかし、修士論文の仕上げには取り掛かれずにいた。元日の能登半島地震で、大学院生でもある松尾が研究対象としている和倉温泉や、当地のスポーツ合宿施設が甚大な被害を受けるなど、精神的な打撃が大きく、打ちひしがれていたからだ。修士論文の提出期限は8日後に迫っていた。 ◇ 松尾が仕事と大学院の二足の草鞋(わらじ)を履くようになったのは、2023年の春からだ。少し前に不惑の節目を迎え、東京商工会議所の経営指導員として独自の強みを持てるようになりたい、自分自身の可能性をもっと広げたいと、迷いつつも新たな一歩を踏み出した。 「王道を進むなら、国家資格の中小企業診断士を目指すなど経営指導自体の専門性を高めていく道ですが、その意味では私はマイノリティなのかもしれません」 書類選考と口頭試問を通過し、松尾が入学したのは早稲田大学大学院スポーツ科学研究科修士課程1年制。明治大学の卒業生で、ラグビーの早明戦を毎年のように家族連れで観戦してきた松尾は、これもまた何かの縁ではないかと、人生の面白さを感じていた。しかし蓋(ふた)を開けてみると、仕事と学問の両立は想像していた以上に松尾を消耗させる。 4月に始まる春学期は、平日は月曜日を除き、仕事を終えた後の夜間に講義を受け、ゼミにも臨む。土曜日は午前から夕方まで授業が続き、日曜日は大学院自体は休みでも、溜まっているレポートに向き合わなければならない。 修士のカリキュラムは通常2年で組まれるが、松尾が入学した修士課程1年制は2年分を1年弱にぎゅっと詰め込んでいる。もちろん仕事は仕事でしっかり取り組まなければならず、松尾は少しずつ疲弊していった。「こんなチャレンジを、なぜ始めてしまったのだろうか」と、悔やむ気持ちとの闘いでもあった。 松尾を追い込んでいくもうひとつの苦闘は、大学院に入学していなければおそらく味わえないものだった。自分自身で選択する研究テーマに「学術的な意義」があるかどうかの見極めだ。 松尾が選んだ当初のテーマは「育成年代を対象にした民間クラブチームと地域企業のパートナーシップの在り方について」というものだった。このテーマに個人的な意義、社会的な意義、そして学術的な意義のすべてが揃っているか、個人と社会と学術という3つの円形に重なり合う意義があるかどうかを、できれば早めに見極めなければならない。 ちなみに同じ大学院の同じスポーツ科学研究科でも、意義の重みづけは指導教員によって異なるようだった。松尾が望んで師事し、恩師となる指導教員に求められたのは、3つの意義が重なり合う研究テーマだったのだ。 このうち学術的な意義があるかどうかは、ひとつは先行研究の有無で決まる。もうひとつは需要の有無だ。たとえ先行研究が存在していなくても、誰にも興味関心を持たれないテーマであれば、学術的な意義はないものと見なされる。 この学術的な意義の見極めが、研究活動そのものの経験に乏しい松尾にとっては難関だった。先行研究なしと断じるには、膨大な数の“論文の森”に自ら分け入っていくしかない。松尾が途方に暮れていたのは、険しい論文の森を踏破する術を持たずして、方向感覚を失い、森の中を彷徨(さまよ)いつづけていたからだ。