【鉄道と戦争の歴史】日露戦争最大で最後となった陸戦は「鉄道」の存在が鍵を握っていた!
日露戦争前、シベリア鉄道の建設が始まると、日本は否応なくロシアの極東進出に関心を高めることとなった。戦争が迫ると、日本は情報収集能力をフル稼働して、ロシアが極東に派遣できる兵力の分析に務めたのである。 日本がロシアと戦争をするなど、決してあってはならないと誰もが考えていた1891年2月24日。ペテルブルクでシベリア鉄道の建設が決定し、同年3月29日に勅令が公布された。西はウラル山脈東方のチェリャビンスク、東は日本海に面したウラジオストクから、それぞれ内陸部に向かい建設工事が開始される。 当初はロシアと清国の国境に沿って敷設される予定だった線路が、日清戦争で清が日本に敗れたために1896年、ロシアは清から満州経由でウラジオストクまで鉄道を敷く権利を獲得。これが後に東清鉄道となる。さらに1898年には旅順と大連を租借し、ハルビンから南下する東清鉄道南部支線の敷設権も入手。こうしてロシアは、当時すでに戦略的輸送手段となっていた鉄道を確保したうえで、満州から朝鮮へと進出してきたのである。 日露戦争開戦前後から、ロシアが極東に向けられる戦力を正確に分析するため、ロシア帝国公使館付陸軍武官の明石元二郎(あかしもとじろう)大佐らは、シベリア鉄道の輸送量を調査。それを元に算出されたのが「1905年末までに極東ロシア軍の兵力は100万人に達する」という驚きの数字であった。もしこれが現実となったら、日本の兵力をすべて注ぎ込んだとしても、到底太刀打ちできるものではない。 だが実際は、ロシア軍の兵力はこの計算よりもずっと少なかった。その要因は、日本人が考えるよりもシベリア鉄道の運行が、時刻表通りにはいかなかったことが大きかったといわれる。几帳面な日本人に対し、ロシア人は何事ものんびりしていたのである。そこを考えず日本軍の首脳は、几帳面にデータだけを元にして輸送力を計算したのであった。 明治38年(1905)1月、黒溝台(こっこうだい)の戦いにかろうじて勝利した日本軍に、北上してきた乃木希典(のぎまれすけ)大将率いる第3軍が合流、ようやく戦力が充実したことで、ロシア軍の拠点であった奉天(ほうてん)への進撃を開始する。一方のロシア軍も、ヨーロッパからの増援を得て、大勝負を挑むだけの態勢を整え、待ち構えていた。奉天に集結した両軍の兵員数はロシア軍32万、日本軍25万。幸運にも当初、日本側が予測した数を大幅に下回っていた。それでも火砲はロシア軍1200門、日本軍990門という、空前の規模を誇る会戦が始まろうとしていた。 すでに国力の限界を超えていた日本は、戦いが優勢のうちに講和を進めたいため、総力戦に打って出ることにした。一方、ロシア側の司令官クロパトキン大将は、補給線が伸びきった日本を奉天で殲滅することを企図していた。2月21日、日本軍右翼の鴨緑江軍(おうりょくこうぐん/1月に編成、軍司令官は川村景明/かわむらかげあき/大将)が雪の中を進撃し、激闘の末24日に清河城(せいかじょう)を制圧。これをクロパトキンは乃木の第3軍と思い、奉天西部にいた大量の予備軍を、鴨緑江軍がいる東部へ移動させた。 クロパトキンは旅順を陥落させた乃木の戦闘指揮能力と、その揮下の第3軍を高く評価していたからだ。だが本当の第3軍がロシア軍右翼を包囲するように動き出したと知り、急いで予備軍を右翼に転進させた。対して乃木第3軍は大きく迂回北進し、ロシア軍の側面を突こうと行軍していた。 奉天正面を右から第1軍、第4軍、第2軍と布陣していた日本軍主力も、第3軍を援護するため砲撃を開始した。さらに3月1日になると、日本軍は総攻撃に移った。だが戦線は日本軍不利のままで膠着状態に陥ってしまう。頼みの28センチ榴弾砲(りゅうだんほう)も、凍てついた満州の大地にはね返されてしまったのだ。 一進一退の攻防に変化が出たのは、6日になってから。日本の第1、第4軍と対峙していたロシア軍が後退を始めたのである。これは奉天の北方20km地点まで、騎馬の機動力を発揮して進出した秋山好古(あきやまよしふる)少将が率いた部隊により、鉄道網を寸断されることを恐れたクロパトキンが主力を第3軍と秋山支隊へ差し向けた処置であった。 これにより第3軍と秋山支隊は、ロシア軍正面を受け持つこととなり、苦しい状況に陥ってしまう。決定的な危機に直面した第3軍だったが、クロパトキンはその兵力を10万人と見誤った。3万8000人ほどの乃木第3軍は、10万のロシア軍と互角に戦ったからだ。 第3軍の奮闘により、鉄道を占領されたうえ包囲されるという危機感を抱いたクロパトキンは、鉄嶺(てつれい)、ハルビン方面への転進を始めた。首の皮一枚で持ち堪えていた日本軍にとって、これは予想外のことであった。3月10日、日本軍は無人となっていた奉天市街に進軍。こうして日露戦争屈指の激戦は、ロシア側が鉄道を奪取されることを極度に恐れたことが、勝敗を左右したといっても過言ではない結果となった。
野田 伊豆守