特攻隊の兄が生きた証し 能登島の桂さん、日記や遺書読み返す
●21歳で沖縄の海に散る ●「よくやつたとほめて下さい」 七尾市能登島向田町の桂撤男(てつお)さん(85)は、毎年8月15日が近づくと、旧陸軍の特攻隊長として21歳で沖縄の海に散った兄の日記や遺書を読み返す。「不惜身命(ふしゃくしんみょう)」「死にましたらよくやつたとほめて下さい」。終戦から79年、今年は能登半島地震という未曽有の大災害もあり、命の尊さが一段と身に染みたという桂さん。兄の生きた証しを後世に残す思いを強くしている。 桂さんの兄正(ただし)さんは、旧制七尾中を卒業した1941年春、陸軍予科士官学校に入校した。45年5月11日早朝、陸軍特別攻撃隊第65振武隊長として鹿児島県の知覧飛行場から出撃し、沖縄近海で米駆逐艦に突入。死後に少尉から大尉に2階級特進したものの、家に届いたのは軍服の肩章などが入った箱と位牌(いはい)だけだった。 桂さんは15歳年下で、おぼろげな兄の記憶しかない。思い出せるのは2歳の時、帰省中の兄が庭の竹を日本刀で一刀両断した姿などごくわずか。士官学校時代から出撃前までをつづった日記が、亡き兄と自分をつないでくれる存在だった。 「皇國の永遠無窮を信じ、欣然(きんぜん)として死に就きます」「この手紙が着く頃は己に敵艦と差し違へ必ず轟沈(ごうちん)して居ます」。日記からは、戦局が悪化の一途をたどり、物資不足で万全な状態の飛行機はなかったと読み取れる。 兄ら特攻隊12人に与えられたのは旧式の九七式戦闘機で、出撃前日、兄の飛行機が不調で、部下の飛行機と取り換えて代わりに戦地に赴いたとの記述も残る。 自宅近くの高台にある兄の墓は、隣り合う両親ら先祖が眠る墓とともに元日の地震で倒壊し、旧盆前に何とか修繕を終えた。「兄が生きていれば今年で100歳。家族や国を守ろうと犠牲になった兄の思いを次世代に伝えなければならない」。年齢を重ねるたび、戦争を繰り返さないという誓いを強くしている。