ベニシアは「2、3か月の命」と医師に告げられ決意…僕が知らなかった、病室で訴え続けていた言葉
「ターシ」「ターシ」
今年になって、湊先生と話をする機会がありました。先生が忠告してくれたおかげで、僕はベニシアを家に連れて帰る決意をしました。感謝しています、ほんとうに。けれどもそれは流れる川の対岸へ、思いっきり勢いをつけて飛び越えるぐらい勇気のいることでした。 「これまでも先生は、多くの人々に、患者を家に連れて帰るように勧めているんですよね?」 「いいえぜんぜん」 「でもときどきは、そう言ったりするんでしょう?」 「私が言ったのは、あなただけです。他の人に言ったことはありませんよ」 「じゃあ、どうして僕に言ったのですか?」 「ベニシアさんは、病院に連れて来られてからずっと、『ターシ』『ターシ』とあなたの名前を呼び続けていました。そして『家に帰りたい』『大原に帰りたい』と繰り返し訴えていました。だから私はあなたに言ったんですよ」 僕はびっくりです。ベニシアは僕に一度も「家に帰りたい」と言ったことはありませんでした。おそらく我慢していたのでしょう。でも本当は帰りたかったのです。 僕はそんな大切なことにさえ、気がつかなかったのでした。
梶山正(かじやま・ただし)
写真家。1959年、長崎県生まれ。ネパール・ヒマラヤでのトレッキングの後、インドを放浪し、帰国後は京都でインド料理店を開く。92年、店の常連客だったベニシア・スタンリー・スミスさんと結婚、96年に京都・大原の築100年以上の古民家に移住。山岳雑誌などで活躍。近著に「ベニシアの『おいしい』が聴きたくて」。ベニシアさんとの共著に「ベニシアと正、人生の秋に」「ベニシアと正2 青春、インド、そして今」「ベニシアと正3 京都大原・二人の愛と夢の記録」など。
ベニシア・スタンリー・スミス
ハーブ研究家。1950年、ロンドン生まれ。貴族の家庭に生まれるが、貴族社会に疑問を持ち、19歳でインドに渡って 瞑想めいそう を学ぶ。71年来日、その後京都で英会話学校を開設。著書に「ベニシアのハーブ便り」「ベニシアの京都里山暮らし」など。ライフスタイルを紹介したNHKの番組「猫のしっぽ カエルの手」が人気を集め、ドキュメンタリー映画「ベニシアさんの四季の庭」にもなった。23年6月、誤嚥(ごえん)性肺炎で亡くなった。