逸木裕「彼女が探偵でなければ」 次代を担う作家が示す最高到達点、単純な二項対立にしない物語の厚み
ギミック、プロット、トリック、すべてを備えている
現代におけるミステリー短篇集の最高到達点ではないかと思うのだ。 逸木裕『彼女が探偵でなければ』(KADOKAWA)は年間を代表する傑作なので、ぜひ読んでもらいたい。 これは私立探偵・森田みどりを主人公とする連作集の第2弾で、第1作の『五つの季節に探偵は』に収録された「スケーターズ・ワルツ」は2022年に第75回日本推理協会賞短編部門を受賞している。同書も良作であったが、続篇の『彼女が探偵でなければ』はさらに凄い。小説としてもう一段上の領域に踏み出している。 収録されている5篇のうち「陸橋の向こう側」は「小説 野性時代」特別編集2022年冬号に掲載された。一読してびっくりし、日本文藝家協会が編纂する年間アンソロジーに推薦した。分量があって中篇の長さなので、本当はアンソロジーには不向きである。長くても原稿用紙60枚くらいまで、という暗黙の了解があり、「陸橋の向こう側」は90枚ぐらいある。でも推した。一緒に推した千街晶之氏も「私はこれを入れるために今日来ました」と言って推した。結果、『雨の中で踊れ 現代の短篇小説ベストコレクション2023』(文春文庫)に収録されたのである。傑作だから入って当然だ。 「陸橋の向こう側」は森田みどりが商業施設のイートインスペースで仕事をしているときに、中学生くらいの少年が開いたままのノートを置き忘れていると気づくことから始まる話である。みどりはそれを見てしまう。彼女には人間のしていることを知りたい、理解したいという好奇心があって、そのためにしばしば厄介事に巻き込まれるのだ。そして見たことを後悔する。 〈父を殺す。絶対に悪魔を殺してやる〉 これはまだ序盤だが、以降の展開は書かない。少年の名は颯真(そうま)といい、殺そうとしているのは実の父親だ。彼の心に生じた狂気を鎮めようとしてみどりは手を尽くす。題名にある「陸橋の向こう側」とはみどりが見たことがある出来事から来ている。彼女はかつて、陸橋で異様な雰囲気をまとった男を見た。仕事中だったので声をかけることはできなかったが、彼はその後に女性を刺し殺してしまった。自分が一言声をかけていれば、女性を死なせることはなかったのではないか、とみどりは思い悩んだのである。こう書く。 〈陸橋の向こう側に行ってしまったら、もう取り返しがつきません。探偵の仕事をやっている中で、わたしは戻れなくなった人を大勢見てきました〉 本書収録作には、若者が事件に関わっているという共通点がある。結婚し、1児の母であるみどりは、彼らよりもちょっと年上だ。若者が犯罪に巻き込まれて道を踏み間違えるのを、どうしても彼女は看過できない。 「陸橋の向こう側」はミステリー的な結末も素晴らしいのだが、しめくくりが綺麗であるということだけが美点ではなく、むしろそこに到達するまでのプロットを賞賛すべき小説である。どうしても颯真を放っておけなくなったみどりは、彼の身辺を調査する。ここが私立探偵を主人公にしてある所以で、事実関係がゆっくりと明かされていく過程に読みどころがある。颯真が殺意を抱くに至った理由はその調査によって判明するのだが、ここから結末の驚きに向けて読者を誘導していく手つきが素晴らしい。物語の筋が太すぎて、読者はその背後にある真相に気づけないのである。みどりの切迫した心情が描かれることで、さらに焦りも生じてくる。人間ドラマの盛り上がりとミステリーとしてのからくりとがこの上ない形で融合しているのである。 これだけでも十分素晴らしいのに、冒頭から続く「殺人計画者と探偵とがノートを通じてやりとりをする」というギミックも加わっているわけである。ギミックだけで読者を驚かそうとする小説には真似のできない厚みが本作にはある。ギミック、プロット、トリック、すべてを備えたミステリー短篇なのだ。