人はなぜ「◯◯界のロールス・ロイス」を目指すのか? 最高であり文化の香り漂うのは「ベル・エポック」という豊かな時代に誕生したから!?
リトル・アーニーの重要な役割
あまり知られていないが、最初のロイス車の開発に不可欠な貢献者のひとりがアーネスト・ウーラーである。1888年にマンチェスターで生まれた15歳のアーネストは、身長162cmで、1903年に年季奉公の見習いとしてロイスリミテッドに入社したときには「リトル・アーニー」というニックネームで呼ばれていた。彼は製図室で1日1シリング(現在の約7.60ポンド)の賃金で週56時間働き、設計図の作成を学んだ。 ある朝、不吉な呼び出し状が届いた。ロイス氏が彼に会いたがっているというのだ。ロイスは若者が内緒で行っていた手仕事を厳しく叱責した後、メモ帳を取りに行くように命じた。 「それを持って私について来なさい」と彼は言い、作業場へ先導し、そこでドコーヴィルに乗り込み、ジャケットを脱いで袖をまくり上げた。そして、フィッターに手伝ってもらいながら、クルマを几帳面に分解し始めた。その近くでアーニーはメモ帳を持って箱の上に座っていた。「それぞれの部品が手渡され、私はそれをスケッチし、彼らが見積もった寸法を書き加えた」と彼は後に回想した。 ロイスが正しく判断したように、アーニーはその後の自動車の設計に反映される基礎データを把握する理想的な人物だった。ロイスは、アーニーがどん底からスタートしながらも自分を向上させたいと熱望する若者という、同志のような存在であると気づいていたのではないかと勘ぐりたくもなる。もしそうなら、彼は正しかった。1913年、アメリカに移住したアーニーは、設計技師として成功を収め、ベアリングのエキスパートとなって数々の特許を申請した。1947年、彼はフロリダ州ヒルズボロビーチで引退し、そこで初代町長に選ばれた。
小さなことが完璧を生む
ヘンリー・ロイスはわずか10歳で学校を去り、正式な教育は10代後半に通った英語と数学の夜間クラスだけだった。後に世界的に有名なヘンリー卿となった彼は、簡単な算数しかできないと自虐的に語っていた。しかし、彼には学歴の不足を補って余りある本能的、直感的な才能があった。 前述したように、ドコーヴィルはそれ自体が高度に進化した自動車であり、ロイスはその主要な特徴(2気筒エンジン、ライブプロップシャフト、チェーンドライブではなくディファレンシャルドライブ)のいくつかを自らの設計に取り入れた。それは、気圧で作動するインレットバルブではなく機械的に作動するインレットバルブ、より効果的なラジエーター、メイン、ビッグエンド、ギアボックスのベアリングの交換、悪名高いドコーヴィルのトリッキーなツインレバー配置に代わるシングルギアレバーなどである。当初から、彼はクルマ全体の重量を減らすことに執念を燃やしていた。ドコーヴィルのブロンズ製警告ベルは、約20kgもあったが、それも取り外された。 ロイスが緻密で厳密な調査を行ったのは、ドコーヴィルだけではなかった。1902年から1905年にかけて、ロイスは友人や知人の所有するさまざまなメーカーの自動車を修理、調査、試乗し、さらに直接的な見識を深めた。彼自身の記録によると、彼はこの研究の過程で約1万1000マイル(約1万7700km)を走破し、その多くは少なくとも1906年まで所有していたドコーヴィルに乗っていたに違いない。 エンジニアとしてのロイスは、世界最高のクルマを作ることを目指していた。それは、虚栄心や概念実証のためのプロジェクトではなかった。彼は、自分の技術革新が商業的に成立することを望んでいたのだ。残念なことに、魅力的な人柄、幅広い社交的ネットワーク、言葉の巧みさなどは、彼の多くの才能の中には存在しなかった。しかしロンドンに、これらの資質を十分に備えた若者がいた。 チャールズ・スチュワート・ロールズである。