一神教における「GOD」は、日本語の「神様」と何が違うのか?
近代社会においては、西洋的な文化や制度が世界を席巻してきた。この「西洋」の文化の大きな礎となっているもののひとつがキリスト教であり、これを知ることは現代社会を理解することにも繋がるだろう。 「日本の宗教は何?」と海外の人に聞かれたとき、仏教と神道の関係を説明できる? ではそもそも、なぜキリスト教における神は一つなのか? 人々は「God」をどう捉えているの? キリスト教の起源であるユダヤ教を足がかりに、社会学者の大澤真幸と橋爪大三郎が対話形式で紐解いていく。 ※本記事は『ふしぎなキリスト教』(橋爪大三郎、大澤真幸)の抜粋です。
日本人は、神様は多いほうがいいと考える
──大澤 とても基本的な質問なんですが、ユダヤ教もキリスト教もイスラム教も一神教で、神が一つであるということに対してものすごく強いこだわりがありますよね。 多くの日本人にとってそのあたりがいまひとつピンとこないと思うのですが、なぜ神がたくさんいてはいけないのか。「一」というのが別格的な意味を持つ感覚的な根拠──論理以前の感覚上の根拠──はどのあたりにあるのでしょう? 考えてみれば、神様はたくさんいるほうがふつうですよね。神様をたくさん持つ共同体のほうが、歴史的には、圧倒的に多かった。結果的には一神教の伝統を持つ社会が地球を席捲したので、神様は一人というのが一般的になりましたけど、もとをただせば、神様をたくさん持つ共同体がいくらでもあった。現に日本でもそうで、やたらと神様がいます。 その神が「一」であるということがなぜそれほど重要なのか。 この「一」に対するこだわりというのは、どういうことなんでしょう? 神学的に体系化される前の、言葉以前の感覚として、「一」への執着、「一」へのこだわりの根拠みたいなものがあったはずだと思うのですが。 ──橋爪 日本人は、神様はおおぜいいたほうがいい、と考えます。なぜか。「神様は、人間みたいなものだ」と考えているからです。神様は、ちょっと偉いかもしれないが、まあ、仲間なんですね。友達か、親戚みたいなもんだ。友達なら、おおぜいいたほうがいい。友達がたった一人だけなんて、ろくなやつじゃない。 で、その付き合いの根本は、仲よくすることなんです。おおぜいと仲よくすると、自分の支えになる。ネットワークができる。これは日本人が、社会を生きていく基本です。このやり方を、人間じゃない神様にも当てはめる。すると、神道のような多神教になる。 すると、一神教がふしぎです。なぜわざわざ、たくさんあるのを切り捨てて、「一」にするんだろう? それからなぜ、神様にあんなに怒られて、それでも神様に従おうとするんだろう? わからないです。理解したくても理解できないから、一神教を信じるなんて、なんて変な人たちだろう、という結論になる。 じゃあこれを、一神教の側から見てみるとどうか。 一神教のGod(神)は、人間ではない。親戚でもない。まったくのアカの他人です。アカの他人だから、人間を「創造する」んです。(続く) レビューを確認する 第2回では、一神教におけるGodから見た人間とはどういうものかを考える。Godが人間を「創造した」のなら、つまりGodにとって人間は、モノみたいなものなのだという。
Daisaburo Hashizume and Masachi Osawa