「私は悪くない」と現実を受け入れない人を待ち受ける、不幸から抜け出せない末路
弱さを認めることが強いということ
性格の弱い人である神経症者は「不幸を受け入れる」ことができないと同時に、自分の弱さも受け入れられない(註1)。 神経症者は弱さを嫌う。それは自分がいかに弱いかを心の底で知っているからである。そしてその弱い自分を自分が受け入れられないからである。他人もまた弱い自分を受け入れてくれないと間違って思っている。実際はそんなことはないのだが、成長期の人間不信が心の底にしっかりと根を張っている。 従って、弱いことが恐怖感につながる。困った時に、誰も本当には自分を助けてくれないと感じているのである。だから弱さを嫌う。 成長期の困った時に、養育者から助けてもらって安心感を持って成長した人と、誰も助けてくれないで成長した人の違いは大きい。同じ人間ではない。弱さと不幸を受け入れさえすれば、人は幸せになれる。だが、成長期に自分の弱さを保護してくれる人がいなかった人には、なかなかこれができない。 自分を保護するものは力しかない。そこで力を求めて奮闘努力する。もし、その奮闘努力で社会的に成功しても、自我の弱さそのものには変わりはない。「内なる力」がいよいよ破壊されている。しかも社会的成功の中で実際にはその人の「内なる力」の芽が摘み取られていくことに気がつかない。 「すべての悩みがなくなるような力を求めてはいけません」とエピクロスは言っている。この言葉はシーベリーの「不幸を受け入れる」と言うことと同じ内容を別の言葉で表現している。 悩んでいる人は、その悩みを完全に、かつ直ちに、そしていとも簡単に解決できる方法を求める。そこで現実にある解決方法を拒否してしまう。ないものばかりを求めていて、目の前にある物を無視する。だからいつまでたっても悩み決しない。悩んでいる人を見ていると、いつまでもできないことにかかずらっている。 本当に強い人は、自分の弱さを受け入れている人である。本当のスーパーマンとは、自分の弱さを受け入れている人である。そして自分の弱点が表われても落ち着いていられる人である。苦悩能力のある人である。また弱さを受け入れてくれる人を周囲に持っている人である。 不幸を受け入れる人が、レジリアンスのある人である。逆境に強い人は、レジリアンスのある人である。人間の場合、弱さを認めることが強いということである。弱いところのない人間など人間ではない。それはおばけである。 シーベリーは「自分の弱さを受け入れれば、失敗は少なくなるはずです。完全であろうとあがくとかえって失敗します」と述べている。「完全であるべきという基準は、ずっと災いのもとです」とも述べている。完全であろうとすることによって人間の能力が破壊されるというのである。 自分の弱点を受け入れている人は、性格的には強い。自分の弱点を受け入れていない人は、性格的には弱い。 性格が強いとは、意識と無意識の乖離がないことである。成長と退行欲求の葛藤はあるが、成長欲求を選択できる人である。成長の症候群に従って生きる、ということである。人とコミュニケーションできる。嫉妬、妬みがない。心が触れ合う親しい人がいる。つまり不幸を受け入れる人は、共同体感情がしっかりとしている。 (註1)The Neurotic Personality of Our Time, W.W.NORTON & COMPANY, 1964, p.16