こんなに当たり前になった言葉なのに…「哲学」というワードが生まれた「知られざる秘話」
明治維新以降、日本の哲学者たちは悩み続けてきた。「言葉」や「身体」、「自然」、「社会・国家」とは何かを考え続けてきた。そんな先人たちの知的格闘の延長線上に、今日の私たちは立っている。『日本哲学入門』では、日本人が何を考えてきたのか、その本質を紹介している。 【画像】日本でもっとも有名な哲学者がたどり着いた「圧巻の視点」 ※本記事は藤田正勝『日本哲学入門』から抜粋、編集したものです。
日本最古の哲学講義
日本で最初に哲学の講義がなされたのはいつであっただろうか。もしこのように問いかけられたら、多くの人が困惑するだろう。手がかりのない漠然とした問いだと思われる人が多いのではないだろうか。 私も長いあいだそう思っていたのであるが、近年のキリシタン研究に触れ、その答が出ていることを知り、驚いた。それは意外に古く、今から四四〇年余り前、一五八三(天正十一)年のことである。イエズス会の高等教育機関であるコレジオが一五八〇年に日本ではじめて豊後の府内に設立されたが、その年に人文課程の講義が開始された。そして一五八三年十月二十一日、人文課程を終えた神学生に対して哲学課程の講義が始められた。用いられたテクストは、イグナティウス・デ・ロヨラ(Ignatius de Loyola, 1491-1556)によって創立されたローマにあるコレジオ・ロマノで哲学と神学を教えたフランシスコ・デ・トレド(Francisco de Toledo, 1532-1596)によるアリストテレスの論理学解説であった。しかしこの府内での哲学講義はラテン語によって行われた。しかもその講義を聴いたのは五名のポルトガル人神学生であった。その意味では、日本における哲学の講義の実質的な始まりとは言えないかもしれない。
西周という異才
日本語でなされた哲学の講義としては、おそらく西周のそれが最初であろう。西は明治維新後、森有礼や福沢諭吉らとともに明六社という団体を結成し、啓蒙家として活躍したが、維新前は江戸幕府の洋学研究教育機関であった蕃書調所(のちに開成所、東京開成学校となり、東京医学校と合併して東京大学となった)に籍を置いていた。一八六二(文久二)年に軍艦発注のために派遣された幕府の使節に随行して、蕃書調所の同僚であった津田真道とともにオランダに留学した。法学や経済学を学ぶことが主たる目的であったが、かねてから関心を抱いていた哲学に関しても多くの知識を得て帰国した。 帰国の翌年、西は当時京都に滞在していた徳川慶喜の側に仕え、フランス語などを教授した(それが慶喜の西洋の文物に対する強い関心を引きおこす一つのきっかけになったかもしれない)。その折、私塾を開き、多くの門弟に西洋の学問を講じた。詳しい資料が残っていないので確かなことはわからないが、そこですでに哲学の講義もなされたかもしれない。 西は維新後、明治政府(兵部省)に出仕したが、その際にも私塾(「育英舎」と呼ばれた)を開き、そこで一八七〇(明治三)年から「百学連環」という題目で講義を行った。「百学連環」は Encyclopedia(百科全書)の訳である(西がなぜそのような題目の講義をしたのかについては、第2講を参照されたい)。哲学のみを対象としたものではなく、学問全体に説き及ぶものであったが、同時に、簡単なものとは言え、「致知学」(Logic, 論理学)や「理体学」(Ontology,存在論)など哲学の諸領域にわたって概説を行い、また「哲学歴史」をも概観する講義を行っている。わが国においてはじめてなされた哲学概論、および哲学史の講義であったと言ってよいであろう。 私たちが現在使っている学問用語の多くは、この講義や一八七一(明治四)年から一八七三年にかけて執筆された「生性発蘊」(人間の生理と心理の根底にあるものを明らかにするという意)のなかで西が使ったものである。「幾何学」や「地質学」といった学問名、「立法権」や「元素」といった学術用語、「概念」や「命題」、「演繹」、「帰納」といった哲学用語などがその例である。そして「哲学」という訳語もその例外ではなく、西に由来する。 さらに連載記事〈日本でもっとも有名な哲学者はどんな答えに辿りついたのか…私たちの価値観を揺るがす「圧巻の視点」〉では、日本哲学のことをより深く知るための重要ポイントを紹介しています。
藤田 正勝