「4月17日の豊後水道の地震」は「南海トラフ地震には影響はない」という専門家の見解に「釈然としないワケ」
メカニズムは170年前の豊予地震と同じ
起きた地震が「私が前震です」と名乗ってくれない以上、地震の後にはそれ以上の地震が来るかもしれないという心の準備と覚悟が常に必要になる。東日本大震災の2日前のことがあって、専門家の見解を鵜吞みにすることに抵抗を覚えるようになった。今回の令和6年豊後水道地震を「南海トラフ地震には影響はない地震」という専門家たちの見解に素人ながら釈然としないものがある。 【マンガ】「南海トラフ巨大地震」が起きたら…そのとき目にする「ヤバすぎる惨状」 今から170年前に発生した江戸時代の南海トラフ地震のことがあるからだ。1854年12月23日午前9時15分頃、東海道沖を震源とするM8.4の地震が発生。その地震により太平洋沿岸には最大22.7mの津波が襲い多数の家屋が倒壊・流失・焼失した。しかし、災禍はそれだけで終わらなかった。その約32時間後、1854年12月24日午後4時30分頃、今度は南海道沖を震源とするM8.4の地震が連続して発生する。再度太平洋沿岸に襲来した最大16.1mの津波で死者数千人という甚大被害を出すことになる。この二つの連続地震は安政南海トラフ地震であった。 さらに悪夢は続く。その41~42時間後の1854年12月26日午前9時~10時ごろ、今度は豊予海峡を震源とするM7.4の安政の豊予海峡地震が発生する。豊予海峡とは、豊後水道の一部を成す海峡で、大分県(旧豊後国)大分市と愛媛県(旧伊予国)伊方町に挟まれた海峡幅約14キロメートルの最も狭い部分。当時は観測体制のない時代なので詳細は不明だが、被害状況から震源は豊予海峡のやや大分県寄りと見られている。震度6と推定される地域は現在の大分県大分市、臼杵市、愛媛県八幡浜などとされている。この安政の豊予地震は令和6年豊後水道地震と同じ海のプレート内が震源のスラブ内地震。つまり、両方ともフィリピン海プレート内部で発生と推定される。その同じメカニズムの地震が南海トラフ地震と連動して発生していたのである。 もちろん、安政の豊予地震は令和6年豊後水道地震と比較すれば地震規模は違うし、安政の豊予地震は南海トラフ地震後に発生した地震なので、この地震の後に南海トラフ地震が発生するのではという推定は前後が異なるので一概に関連付けることはできない。その一方で共にフィリピン海プレート内のスラブ内地震であるならば、南海トラフ地震と「メカニズムが違うから影響なし」という断定が成り立たないなのではないか。こんな門外漢が考えるようなことは地震の専門家たちは百も承知で、常に多角的複眼的に研究していると思うが、東日本大震災の時のように後から「あの見解は間違っていました」と言われても、失った命は戻らないのである。