手塚理美「7歳から代役モデルを始めて」高校も選べず、友だちも作れない日々から『ふぞろいの林檎たち』の転機まで
行きたい学校をあきらめ、友だちと遊ぶ時間もない。髪型も自由にできない。「不自由だった」と話す手塚理美さんが、演技に開眼した瞬間がありました。演技者としての一本道が定まった人生をたどります。(全4回中の1回) 【画像】テレビで見たことないかも!お茶目な手塚さんの姿 ほか(全13枚)
■「午前は学校で午後から撮影現場へ」単位もギリギリだった学生時代 ── 13歳でユニチカの2代目マスコットガール(多数のスターを輩出)に選ばれ、芸能界デビューされました。当時のお写真を拝見すると、中学1年生とは思えないほど大人っぽくて驚きます。ひきこまれそうな強いまなざしが印象的です。
手塚さん:ありがとうございます(笑)。本格的に芸能界にデビューしたのは13歳のときですが、じつは7歳のころからジュニアモデルのお仕事をしていたんです。 もともと弟がモデルをしていたのですが、松屋の七五三の広告撮影のときに、七歳役の女の子が風邪で倒れてしまい、私が急きょ代役を務めることになって。 着物を着るのは好きではなかったけれど、笑顔が得意だったので、「営業スマイルのさとみちゃん」と呼ばれ、その後も広告やCMなどに出ていました。
── 7歳にして「営業スマイルのさとみちゃん」とは、すごい異名ですね。 手塚さん:とはいえ、喜んでやっていたわけでもなく、「笑ったら早く終わる」と思っていたんです。ちょっと冷めた子どもだったんです。 芸能界に入ってから、何度か辞めたいと思ったことはあります。高校受験で志望校に受かったのに、高校側からは、「芸能活動をお辞めになったらいらしてください」と言われてしまって。 行きたい学校だったので、芸能界を辞めようと思ったのですが、周りからは、「ユニチカのマスコットガールとして契約しているんだから、そんなことはできません!」と叱られて。あわてて別の高校の二次募集を受けました。
行きたい学校も選べず、髪の毛ひとつ自由に切れない。友だちと遊んだ記憶もあまりないです。高校も午前中だけ授業に出て、午後からは現場でお仕事。単位もギリギリでした。とにかく自由がなくて、窮屈でしたね。 小さいころから、ずっとそうした環境で過ごしてきたので、いつしか自分の心にバリアを張ってガードするのがクセになっていました。だから、高校時代に女優のお話をもらったときも、「絶対にやりたくない!」と、断り続けていたんです。