藤原道長の父・兼家は、どのように権力を勝ち取ったのか? 『蜻蛉日記』藤原道綱母も絡んだスパイの危機があった
大河ドラマ「光る君へ」ではすっかり老いてしまった、段田安則さん演じる藤原兼家(通称・兼家パパ)。道長たちの父である兼家は、兄・兼通との間で、骨肉の争いを演じたことでも知られる。そこに、実は『蜻蛉日記』の作者である藤原道綱母までが絡んでいたことをご存知だろうか? ■露骨すぎて滑稽な、兼通と兼家の兄弟喧嘩 兄弟がいれば、喧嘩は当たり前。原因は、大抵の場合、ごく些細なことが多いようである。長じてからも、親の遺産を巡って揉めることも少なくないかもしれない。ともあれ、この辺りまでなら、どこにでもありそうな、些細なお話である。 しかし、それが歴史上の人物となると、少々厄介だ。古くは天智天皇と天武天皇も、皇位あるいは一人の女性(額田王)を巡って密やかに対立。挙句、大友皇子を巻き込んだ「壬申の乱」という大戦を引き起こしてしまったことは、誰もが知るところだろう。 中世においては、源頼朝と義経も対立。こちらは、弟・義経の戦功の華々しさに、兄・頼朝が嫉妬したことによるものというべきか。 その他、崇徳上皇と後白河天皇、平城上皇と嵯峨天皇、足利尊氏と直義、源義朝と為朝など、数え上げたらきりがない。ただ、一族の繁栄にも関わる問題ゆえに、「兄弟仲良くすべきなのに」と、簡単に言い切ることができないものなのかもしれない。 今回紹介する藤原兼通と兼家(=道長の父)の兄弟喧嘩も、そんな彼ら同様、一家を思っての権力闘争である。 それでも、この二人の場合は、他の面々に比べて、あまりにも個としての権力に執着し過ぎたようである。露骨な権力闘争も、ここまでくればおぞましいというよりも、むしろ滑稽である。ともあれ、どのようなものだったのか、振り返って見ることにしよう。 ■病床から飛び出して、弟を降格 もともとこの二人、藤原北家九条流の祖で右大臣にまで上り詰めた師輔の次男(兼通)と三男(兼家)であった。父の師輔が960年に病死したため、跡を継いだ長男・伊尹が、参議を皮切りとして順調に昇進していったようである。970年に摂政、971年には太政大臣にも任じられ、政界の頂点に君臨するようになった。 ところが、それから程なく病を患って辞意を表明。と、ここで兼通と兼家が、後継の座を巡って骨肉の争いを演じ始めたのである。円融天皇の御前にも関わらず、兄弟で激しく罵り合ったというから、かなり本気である。 ところが、このとき、兄の兼通が奥の手を使った。秘蔵していた妹・安子(円融天皇の母)が認めた書を天皇に奉ったのである。そこには、「摂関の地位は、必ず兄弟の順に受け継ぐべし」と書かれていた。 母からの遺命とあっては従わざるを得ず、兼通に軍配が上がった。ひとまず兼通に内覧を許し、内大臣にも任じた。そして、974年には関白太政大臣に叙任したのである。 こうして妹の力を利用して権力の座を得ることができた兼通は、弟・兼家の昇進を止めたばかりか、異母弟の為光を筆頭大納言に引き上げて、兼家の上位に据えた。そればかりか、兼家の娘・超子や詮子の入内をも妨害するなど、これでもかと言わんばかりの嫌がらせを繰り返したのである。 しかし、その得意満面だった兼通も、程なく重い病に倒れてしまった。と、今度は兼家が好機到来とばかりに、行動を起こしはじめたのである。天皇へのアピールである。牛車に乗って、内裏へと向かったのだ。それが、977年10月のことであった。 一方、弟・兼家が住む東三条殿から牛車がやってきたとの知らせを受けた兼通は、日頃仲の悪かった兼家も、病床の兄を心配して見舞いに来たのかと思って待ち望んでいた。ところが、牛車が道兼の屋敷を素通りして内裏の方へと通り過ぎてしまったから激怒。 体調が悪いにも関わらず、急ぎ内裏へと駆けつけて除目を行い、左大臣・頼忠を後任の関白にしたばかりか、兼家の職を解いて治部卿へと降格させてしまったのである。この時、先に内裏へたどり着いて天皇に御目通りしていた兼家の方が、兼通のあまりの気迫に恐れおののいて、早々に立ち去ってしまったという。その形相が、狂気に満ちたものに見えたのだろう。 さて、ここまでは、よく語られる両者の喧嘩模様であるが、本題はここからである。 ここに一人の女性が絡んでくるから、俄然、話が面白くなってくるのだ。 その女性が、藤原道綱母(名は不明)である。いうまでもなく、兼家の妻であるとともに、かの『蜻蛉日記』の著者でもある。「光る君へ」では寧子(やすこ)として財前直見さんが演じている人物だ。